松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区隠蓑 山神社・隠徳庵・安徳天皇御塚


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安徳天皇 - Wikipedia

そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。
(略)
伝説
安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がある。九州四国地方を中心に全国各地に伝承地がある。

平家の落人伝説は全国各地にあります。

すでにこの日記でも、

8月16日の日録 - 美風庵だより(北九州市門司区黒川東の「殿墓」)

嘉麻市泉河内 山の神神社・瀬畑の氏神様 - 美風庵だより

小郡市三沢 稲荷神社(黒岩稲荷神社) - 美風庵だより

うきは市浮羽町妹川 高西郷水天宮(こせのごうすいてんぐう) - 美風庵だより

久留米市田主丸町中尾 平神社 - 美風庵だより

久留米市大橋町常持 印鑰神社・庄前神社 - 美風庵だより

朝倉郡筑前町曽根田 玉蟲神社(玉虫大明神) - 美風庵だより

かなりの数、平家の落人伝説(安徳天皇隠棲伝説)の地を取り上げてきました。じつはこの日記内、まだまだあちこちで触れています。

いったいどれがどこまでほんとうなのか?とかんがえてしまいます。いまみたいにSNSやgoogleがあるわけでもテレビがあるわけでもありませんから、顔も背格好も声もわかりません。写真付きの身分証明証なんてあるわけもありません。

影武者か、子供を偽物に仕立てたか、平家の落人と彼らが連れた女子供を住人が誤認したか、とにかく数えればきりがないほど、安徳天皇落ち延び伝説があります。

隠蓑 - Wikipedia

地名の由来
壇ノ浦の戦いで平家が敗北し、入水したと見せかけて平家の公家に連れられ九州に逃れた幼い安徳天皇がこの地で藁の中に隠れていたという言い伝えにちなんでいる。日本各所に複数言い伝えられる安徳天皇御陵のうちの一つがこの隠蓑にある。 

この隠蓑(かくれみの)地区も、安徳天皇にまつわる言い伝えをもつ地域です。

九州自動車道をアンダーパスして集落のほそい路地にはいると、案内板があります。クルマではとおれない坂をのぼっていきます。

坂をのぼりきると、「安徳天皇御陵」は目の前です。

仏さま、神社、安徳天皇御陵と、地域の祭祀が一か所にまとめられています。

画像右手に十三仏、それとは別に不動明王や観音さまが祀られています。

このお堂が隠徳庵(いんとくあん)とされ、2市1郡新四国霊場第74番札所とあります。施錠されており、私本人が写りこまないようiPhoneで内部を撮影することができませんでした。薬師如来さまが本尊として安置されているようです(暗くてわかりません)。

案内板と「御陵」のあいだに、安徳天皇のお手植えと伝えらえる「木斛(もっこく)」の一部が保管されていました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/80/Ternstroemia_gymnanthera2.jpg

モッコク - Wikipedia

庭木でみますね。こういう葉っぱがつく、3~5mほどの樹木です。

現地案内板と御陵の配置は、このようになっています。

最初、この大きな御幣と背後の神棚で、なにかの神仏を祀るお堂だろうと勘違いしていました。

てっきり、このお堂のほうが御陵なのだろうとおもったわけです。

このお堂は施錠されておらず、なかを拝謁させていただくと、貴布祢大神・大山祇大神・須佐大神が祀られているお宮です。

福岡県神社誌では「小倉市隠蓑字山神」に「山神社」があるとありますから、これが現在の「山神社」のようです。御陵ではありません。

すると?どこに御陵が?

山神社の正面向かって左脇に、豊前坊(高住神社)がべつに祀られています。

その奥には不動明王の姿もあります。

なにか間違えたのか?

さきほどの「御陵」にもどり、しゃがんで下から眺めると、御幣のうらに五輪塔がかくれていました。御幣を勝手にうごかすわけにはいきませんので画像はありませんが、五輪塔が4基あります。安徳天皇と従者の墓が、ここに在るわけです。

しびきせ祭

毎年十二月十五日に安徳帝を偲ぶ祭と農村の収穫儀礼行事を合わせた祭として「しびきせ祭」が行われる。
寿永四年(一一八五)に壇之浦で入水されたと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田の浦へ上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼られ二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので英彦山に向って城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来られたとき村は名もなき庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追っ手が迫ってくるのを知った村人は同情申し上げ有り合せの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事では神主が御祓したあと、その年の年少者を安徳天皇に見立てて藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、握りこぶし大の安徳天皇の御姿や御靴型を納めたすぼを御供えし、祭りが終わると氏子達がそれぞれを持ち帰る。春には、先帝祭というおこもりも行われている。
北九州市

Shibikise Festival
The shibikise Festival is held every year on December 15 to keep the memory of the Emperor Antoku alive and also as a harvest festival in the farm village of Kakuremino. The child Emperor Antoku, who it is said was drown at Dannoura in 1185, arrived at Tanoura in Moji with the court nobles of the Heike Clan. They went by way of Matsugae to take refuge with the Lord Nagano. They hid in his castle for 2 or 3 months. But upon the death of the lord, they fled to Hikosan. They traveled through Yokoshiro and when they arrived in the village of Kakuremino (then called Jono Village), the villagers were in the middle of rethatching the local Buddhist hermitage. The villagers took pity on the emperor and hid him from the pursuing Genji Clan by covering him with a cape made of straw and on top of that piling old straw from the straw decorations (called shibi) off of the old roof of the hermitage. By doing this, the emperor was able to escape from his pursuers, it is said.
In the village, after the Shinto priest purifies the area, the smallest child is chosen to represent the Emperor Antoku and straw for roofing is thrown on this child and other children and prayers are offered for the children to keep bat luck away and so that they will grow up safely.Them straw wrappers in which small figurines of Antoku and models of shoes made from rice cakes are placed, are offered in prayer at the shrine. After the festival,parishioners of that shrine each take home one of the straw packages.
In spring, the Senteisai Festival is held to pray for Antoku.

英文を翻訳ソフトで和文にしたものは、以下をご覧ください。

ディープエルってすごい(^^♪ - 美風庵だより

豊前長野氏 - Wikipedia

古伝によると保元2年(1157年)平清盛の従兄弟とされる平時盛の6男、修理判官康盛が豊前の国司となり規矩郡長野に城を築き地名を取り長野氏と称したとある。その後430年近く豊前にて国人領主として活躍した。 
九州平定に際しては先駆けとして豊前入りした黒田孝高・毛利氏の連合軍に早々に降伏し、城も明け渡した。以後、中津城築城までの間、馬ヶ岳城が黒田氏の居城となる。長野氏自身は小早川隆景の家臣となって筑前移封に従ったが、子孫は大坂の陣にて滅亡した。一部の系統は英彦山に逃れて修験者となり、現代にまで続いている。 

武家家伝_豊前長野氏

源平内乱の時代、康盛の子長盛らは平家に与して、信盛は壇の浦で平氏とともに入水自殺している。平氏滅亡後、長盛は源頼朝に降ったが、平氏の一族ということで赦されなかった。その後、源範頼の取りなしで赦面を得て、本領の規矩郡地頭職を安堵されたと『長野系図』に記されている。 

現地案内板とwikiなどの記述を比べながらかんがえてみます。

  1. 安徳天皇の御一行はまず、同族の長野氏をたよって落ち延びました。
  2. 城主の死亡とありますが、おそらく城にかくまうことが不可能になった(バレた)のではないか。または、所領安堵のため源頼朝に下る邪魔になったのではないか。手柄に差し出せばと一瞬おもいますが、そういうものではなかったのでしょう。
  3. 英彦山に逃げるよう手配するも、安徳天皇御一行だけで逃げることになり、ここ「隠蓑」で、なんとかごまかすことに成功した。

ということでしょうか。

しかし、そうなってくるとまた次の疑問がわきます。

案内板にあるとおりなら、ここで追っ手をやり過ごし、英彦山まで逃げたわけです。

ところが石碑は「御陵」。墓なのです。

ここで亡くなっているということ?

小倉南区津田・長野・横代・隠蓑・堀越地区の史跡等

安住の地を求めこの地にたどり着きました。そして、この地で天皇が亡くなった為、火葬し墓を建てたと云われています。境内には、安徳天皇を祀った石碑と4基の五輪塔が祀られた御堂があります。なお、安徳天皇の陵墓は、全国に数十箇所の伝承地があり、現在は下関市の赤間神宮にある墓が阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされています。

つまり追っ手を逃れたあと、英彦山へ向かうのを諦め、この地に隠棲したということになります。

歴史は実に謎が多い……。

福岡県神社誌:下巻449頁
[社名(御祭神)]山神社(大山祇命)
[社格]無格社
[住所]小倉市隠蓑字山神
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.22訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月22日の日録 - 美風庵だより