松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

小郡市三沢 稲荷神社(黒岩稲荷神社)


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伊勢山神社を訪問して、そのままゼンリン(いつもnavi)をたよりにゴルフ場に向かう道路をすすんでいくと、お稲荷さんがありました。

最初、これが黒岩稲荷神社かと思い近づいて案内の看板をみると、どうやらここは「奥之院」のようです。あらためてgoogleマップを確認すると、さらに先に本社があるようなので、軽く参拝して、先に進みます。 

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本殿と案内板のあるほうにあがっていくと、社殿がみえました。

最初、手前の神社がお稲荷さんの社殿だと思ったのですが、楠彦院神社・楠千代丸神社と扁額に在ります。どうやら摂社のようです。では本当のお稲荷さんの社殿はどこかと見回すと隣にありました。

社殿にたどり着いて気づいたのですが、どうやら私が上がってきたのは裏参道にあたるもののようで、社殿から見下ろす場所に、立派な石段があります。ちょうど、社殿に脱いだ上着をひっかけて、水筒やタオルを置いた状態で、上半身裸の男性がトレーニングをしていました。

社殿の写真がやたらと屋根ばかり写しているのは、その彼の荷物が写らないように配慮したためです。

自転車のところまで戻り、舗装された道をすすんでいくと、社殿から見えた(ほんらいの正面)参道と石段の入り口にたどり着きました。立派な案内板があり、以下に内容を書き写してみます。

黒岩稲荷神社の由来

黒岩稲荷神社の祭神は倉稲魂神でこの神社創建には次の様な由緒伝説がある。
安徳天皇の寿永四年壇の浦の戦いに敗れた平家の一門に慈禅尼と云う人があった。京都を去るとき平家の武運長久を伏見稲荷に祈願しその分霊をうけて西下したが平家は一の谷、及び屋島の戦いに敗れ遂に壇の浦の戦で安徳天皇は入水し給い悲惨の大事となった。
禅尼は密かに逃れて肥前の国の山奥や更に筑後の国高良山の庚申塚等転々と追討の手を逃れ、遂にこの黒岩山に移り岩穴に隠れ霊を祀り朝夕礼拝を続けた。
これが後鳥羽天皇の御代(西暦一一九〇年)の末期のことである。その後禅尼は肥後に潜伏している一族の思慕の情に堪えきれず密かに彼の地に去って帰らず。茲に禅尼に付添って来た源三郎介と言う武士が禅尼の志を継ぎ祭祀の礼を続けたのがこの神社の始まりだと言われている。
以来今日まで郷土の人々の崇敬篤く寛延二年筑後の領主有馬頼徸の奥方が主人の昇進を祈願され霊験あって左小将の位に昇進されたので社殿を建立更に宝暦十二年有馬頼貴公は奥方の病気平癒の返礼に明和二年、参道の敷設と鳥居一基を献上された。これが南方百メートルの旧参道に今尚現存するものである。
昨今では鎮火・商売繁盛・学業成就等の神として遠近からの参詣者が多い。
この社殿は昭和二年に改築され毎年二月の初午の日に例祭が行われ露店の燈真は火除けの印として亦初午「おこし」はここ独特の手毬のような色とりとりで染めた美しさはお土産品として参詣者に喜ばれている。

以上

何も知らず、最初はゴルフ場の屋敷神かと思っていたのですが、どうやらゴルフ場があとからできたもののようです。しかし、この慈禅尼とはいったい誰なのでしょうか。 

http://visnet.ne.jp/ep/chieikasu/column/column231.html

もう一つ印象的な伝説として、鬼山御前の話がある。
鬼山御前は、屋島の戦いで源氏方の那須与一が射抜いた扇の的を持っていた女官・玉虫御前であると言われている。落人となった玉虫は、鬼山と名を変えて、弟の久茂と五家荘に通じる柿迫の岩奥というところに落ち延びた。鬼山御前は絶世の美女との誉れも高く、話を聞いた高名な画家が3枚描いた肖像画の1枚が現存している。
平家の追討を命じられた那須与一の嫡男・那須小太郎宗治が、五家荘に入ろうとした時に、「この先には人は住んでいません。しばらくここで疲れを癒やしませんか」と引きとめて暮らすうちに、小太郎が、美女で心根の優しい鬼山御前と恋に落ちて結ばれたとのこと。鬼山御前は、多くの子供を育て、『乳の神様』として、泉町の保口若宮神社に祀られているとのことである。

鬼山御前の伝説

平家の官女、玉虫御前は屋島の戦いに敗れ四国より日向を経て、弟と共に源氏の追討をさけ、名も鬼山御前と改名し、柿迫村岩奥にすみつきました。
その頃源氏の追討はきびしく那須与市の弟大八が、平家の残党を追い求めて、椎葉村まで参りましたが、大八の帰国がおそいので、那須与市の嫡男を第二の追討に差向けました。
那須の軍勢は、岩奥を通り五家荘へと向かいました。
岩奥に住みついていた鬼山御前は、那須の軍勢の後を追い、同じ同族の平家を討たせてはならぬとやっとこの地、保口にて追いつき「この奥は人の住む所ではない、ここに留まって様子を見ては」と引き留め、那須与市の嫡男と鬼山御前との共同生活が始まり、そのままこの保口で一生を過ごしたと伝えられます。
(保口の那須家は、その子孫とつたえられる)

慈禅尼が去った肥後は、玉虫御前の故郷です。なにか御縁があったのでしょうか……。

 

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福岡県神社誌:下巻421頁
[社名(御祭神)]稲荷神社(倉稲魂神
[社格]無格社
[住所]三井郡三国村大字三澤字黒岩
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.08.19訪問)