美風庵だより

幻の花散りぬ一輪冬日の中

「半日の放浪」

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あまり派手に画面をキャプすると引用規制にひっかかるので1ページで止めますが、高井有一さんの「北の河」の冒頭です。

赤貧がこれに出会ったのは学生の頃でした。世のなかにはほんとうに文章の上手いひとが居るものだと感心して、すっかり高井さんのとりこになった記憶があります。ここ最近、文庫ですら絶版だったのに電子版がときおり出版されるようになり、持ち運んで何回も素晴らしい文章を味わえるのは、ほんとうによい時代になったとしかいいようがありません。

ただ、やはりというか、高井有一さんの文章のよさは、旧仮名づかいのゆったりとした呼吸のよさにあるので、新仮名だと、それがすっかりと削げ落ち、ただの読みやすい文章になってしまっているのがもったいない。出版社は旧仮名の持つ表現力をもっといろんな世代に売り込んでほしいのですが、やはり、若い世代だと旧仮名というだけでアレルギーでちゃうんでしょうね……。

表題作の「半日の放浪」は、筑摩書房の「夜の蟻」の最初の収録作品で、手元にある文庫本が1993年初版とあり、それ以前に発表されたことはたしかです。おそらくは、平成になるかならないかくらいの時代でしょう。

立原正秋(新潮文庫)

立原正秋(新潮文庫)

 

高井有一さんとの出会いは、じつはこの「立原正秋」でした。

まだ学生のころ、これを読んで刺激され、鎌倉の梶原山の立原邸まで押しかけました。
「墓石の周囲の砂が減っていく」話をご家族からきかされ、じつは自分も墓地にお参りして記念に砂を持ち帰ってきたことを、さすがに言い出せませんでした。懐かしい時代です。

小郡市下岩田 天満宮


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赤貧です。
8月10日、残暑見舞い用のかもめーるを購入しに郵便局へ出向いたあと、散髪のため筑前町の「理容はなだ」に行きました。

その帰路、神社めぐりを行いました。

福岡県神社誌では「御原村大字下岩田打上リ」にある「大神宮」とされており、御祭神は天照大神と菅公とされています。

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境内には神社合祀記念碑があり、それを読むかぎり、大正元年(1912年)に2つの神社(天満宮・大神宮)を一か所にまとめたようです。

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この神社の社殿と鳥居の配置は特徴があり、道に挟まれて、鳥居の前は森となっています。ふつう、道と境内の接点に鳥居があるものだと思っていたので、いったいこの先にはなにがあったのかと考えてしまいます。

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小郡市の歴史を守る会 :: 松崎藩

(略)天満神社は松崎藩が天領となった時の初代代官服部六左衛門が元禄2年(1689)、松崎の鎮守として古原筒ヶ池の東側に下岩田念島にあった天満宮を遷し(略)
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ヒントは意外なところにありました。下岩田の念「島」とあります。古い時代の地勢がわからないのであくまでも仮定ですが、この鳥居の先は、池や川だったのではないでしょうか。森の中からはたしかに水の流れる音が聞こえてきましたし、水路に面した鳥居が、地形の変化のあとも、ずっと建て替えられながら伝承を守っているのかもしれません。

(2019.08.10訪問)

 

朝倉郡筑前町砥上 中津屋神社(砥上神社)


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神功皇后新羅征討の際に頓宮とした「中つ屋」が名前の由来とされる神社です。また、軍に武器の手入れ(刃物を砥ぐ)をさせ戦の準備をしたことが、「砥上」という地名の由来となったとも伝えられています。

足仲彦(仲哀天皇)は、現在の下関・長府に行宮を置き政務をとっていたとされています。そのとき、朝鮮・新羅の扇動により熊襲が襲来したとされており、これが下関・忌宮神社に伝わる数方庭祭の元となっています。

足仲彦の一行は、その後香椎に移動します。そこで内部の意見が分かれました。足仲彦はまずは熊襲征伐を主張しますが、内部にはまず熊襲を支援する新羅を討つべしという意見もあり、紛糾します。

このあたりを、記紀は神にお伺いを立てたとか色々と書いていますが、本当のところはこんなところだったと思います。三韓征伐が神の御託宣であり、それを信じなかった足仲彦は、神の怒りに触れて急死したとされていますが、熊襲の流れ矢で命を落としたとも、小郡市大保にある御勢大靈石神社の伝承にあります。

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御勢大霊石神社 御勢大靈石神社

偶々近臣を従え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。皇后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く秘して仮に御殯葬申し上げた。
熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。その後三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝御凱旋されて、その石を天皇の御魂代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。

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以上の流れを考えれば、この砥上神社は、未亡人となった忌宮・神功皇后と筑紫君、阿蘇津彦達による弔い合戦の、中継地となった場所とみるのが自然です。

小郡大保からここを中継し、松峽宮、秋月八幡宮と兵をすすめ、神功皇后軍は羽白熊鷹を追い詰めていきます。

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社殿の背後に、複数の祠があります。社殿向かって左手に4つの祠があり、現地の案内板では、若狭八幡宮須賀神社、薬祖神社、愛宕神社とあります。福岡県神社誌では、若狭八幡宮が記載されていません。おそらく、重複と思われて削除されたのでしょう。

御神紋などの手がかりとなるものがないため、どれがどのお宮で、誰を祀るものなのか、全くわかりません。

中をのぞいてみると、向かって左端は皇族や貴族の身なりをして、左に女性の姿があり、右が欠けています。おそらく、これが若狭八幡宮神功皇后仁徳天皇、玉垂命)でしょう。向かって右端は男性が2人で、金山彦(=カグツチ)にもスサノオさんにも見えませんから、これが薬祖神社(大国主と事代主)でしょう。

拝殿を覗くと、天井に立派な龍神さまがひかえています。

社伝では、神功皇后は武甕雷神(タケミカヅチ春日大神=草部吉見=天忍穂耳=英彦山)に勝利を祈ったとありますので、この本殿に祀られているのは、春日大神ではないか、という気がします。

武甕雷神を春日大神と同一と考える理由は、三韓征伐と羽白熊鷹征伐の伝承をもつ、ほかの神社の御祭神と比較してみれば、そう考えざるを得ないからです。
例えば、大己貴神社の御祭神は、大己貴命・天照皇大神春日大神であり、荷原の美奈宜神社は、天照皇大神住吉大神春日大神神功皇后武内宿禰です。

社殿向かって右手にある大きめのお宮2つが、大神宮と八幡宮とされているのですが、これもまたお宮に御神紋がなく、どちらがどちらかわかりません。

現地の案内板のとおり本殿が八幡大神神功皇后住吉三神であれば、両翼にさらに八幡宮がある配置は異様です。左手は仁徳天皇、本殿は春日大神、右手は玉垂命=筑紫君もしくは、阿蘇津彦が最初の配置だったのではないでしょうか。そして残る大神宮は、たぶん聖母宮か忌宮として、神功皇后が祀られていたのでしょう。

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(2019.08.02訪問)

朝倉郡筑前町曽根田 八幡宮・高木神社


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筑前町曽根田地区を訪問するのは、今回が2度目です。

前の仕事場時代、「親の故郷を訪ねてみたい」と日系2世・3世のかたからメールが届き、彼らの知識をてがかりに、故郷を探す旅を手伝ったことがあります。正確に言えば当時の部長が某県議経由で話を持ちかけられ、誰も相手をしなかったので、赤貧が押し付けられたのですが。父方の故郷がこの筑前町曽根田地区で、母方の故郷が嘉麻市の上西郷と大橋でした。アメリカに渡ったのが戦前ですから、ほとんど痕跡は残っていなかった記憶があります。

曽根田では、父の本籍地には他人の家が建っていました。地番だけを頼りに4,5軒聞き込みをしたら、「その地番はウチです」と言われたのをおぼえています。

上西郷地区では、家があったはずの地番は土地改良でつぶれてなくなっており、大橋地区では、炭鉱閉山後に河川改修を行い地番を振り直したそうで、家があったはずの場所は川になっていました。

あまりに久しぶりのため、どこを右折したら曽根田地区にはいれるのか、交差点すら忘れていました。

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まず、高木神社を訪問しました。英彦山信仰の痕跡が見つかるのではないかと思ったのですが、社殿は改築したらしくきれいな状態で、過去を知る手がかりはほぼ絶無です。

残念な気分で、googleマップを頼りに天満宮に向かいます。

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鳥居を見上げると、八幡宮とあります。注連柱には三つ巴紋が打たれています。どっからどう見ても八幡宮です。なにか間違ったのではないかと思い、参道とは違う通りを歩いてみます。

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以前も思ったのですが、この曽根田地区は立派な石垣が多い場所です。かぼちゃの畑が、宅地か役所の石垣なみにがっちり築かれています。どこかの城塞といって写真だけ見せれば、騙されるひとも出るでしょう。むかしは相当な金持ち集落だったのかな?と思いつつ、坂道をのぼります。

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坂道を登ったところに、境内がひろがっています。社殿を一段と高くした、住民や部下にお触れを出す行宮を模した様式で、この神社が相当な格式のあるものだと、これだけでもわかります。

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社殿のあちこちに三つ巴紋があり、扁額には八幡宮の文字が書かれています。これのどこをみて地図屋は天満宮と表記しているのかと驚いてしまいます。たぶん、実物を見ていないのでしょう。

福岡県神社誌には、ちゃんと八幡宮で掲載されていました。境内社は、須賀社と田天神社とありますが、赤貧が数えただけでも、4つ祠があります。

向かって左端には御祭神が2体並んでいる祠があり、片方は木製でもう片方は石で出来ており、脈絡なく並べて置かれています。

逆に、向かって右側には3つ祠があり、右端から中央に向かって、梅鉢紋が打たれた天満宮大山神社、そして鏡の台座だけがある祭神不明の祠が並んでいます。

天満宮のなかには、ほんとうに誰か寝ているのではないかと思えるほど精巧な顔つきをした仏像がありました。身体は朽ちていますが、顔だけは寝顔のようです。しかも死人の寝顔で、デスマスクかと疑ってしまうほど。

赤貧は霊感を信じるタイプではありませんが、さすがに今回は、画像の掲載は控えたいと思います。気になる方は、自分で足を運んでみてください。

その次の大山神社は、大山祇を祀っているようです。

もっとも社殿に近い祠は、鏡の台座だけでもぬけの殻です。

逆側にある2つ御神体が並んでいる祠は、かたほうはタノカンサー(大幡主)でしょう。もう一方が、菅公ではないか?という気がします。この2体も、どこか生きているかのような気がしてきます。

さすがにこれほど生々しい表情の仏像を見てしまうと、じっくり腰をすえて眺める気が起きず、早々に退散しました。

霊感のあるかたは、訪ねてみると面白い経験ができるかもしれません。

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(2019.08.02訪問)

 

朝食

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朝5時ごろ起床。
冷蔵庫をみるともやしが入っていた。
スパゲティ麺を茹でる。茹であがったら麺をいったん取り出す。
茹で汁に、ヒガシマルのちゃんぽんスープと創味シャンタンDXを入れる。
スープを溶かした茹で汁でもやしに火を通し、最後に、スパゲティ麺を鍋に戻して、もやしを一緒に煮込む。
 
洗うのが便利なので、さいきんずっと金属製の食器を使用している。
 
ほんとうはもっと具材がいろいろないとちゃんぽんとしては成立しないのだけれど、赤貧生活ですから(笑)
しかし、朝からよくこんなものをつくってるよなぁ。
(2019.09.13記述)