美風庵だより

幻の花 散りぬ一輪 冬日の中

三潴郡大木町絵下古賀 高良玉垂命神社


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大木町絵下古賀 高良玉垂命神社 - 美風庵だより

まだ「神社めぐり」シリーズを始めるまえに、2017年3月に訪問しています。約4年ぶりの再訪です。

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長い参道を歩くと、三つ巴紋が屋根瓦に打たれた社殿があります。おそらく改築した際に現行の高良大社の影響を受けたか、創建が比較的新しい可能性があります。

久留米市御井町の高良大社の御祭神は、高良玉垂命住吉大神八幡大神とされています。

この絵下古賀の高良玉垂命神社の場合、御祭神の武内宿禰とは、以前から書いているとおり(抹消された)高良玉垂命の身代わりですし、筒男三神(住吉大神)、応神天皇八幡大神)と通説に基づいてほかの御祭神も書き換えられています。江戸期から戦前にかけての一般的な理解に近く、勧請当時の原型をとどめているとも言えるのです。

長い参道、周囲に堀などがあり疑似的に「島」となっていること、これらの特徴は、この西鉄八丁牟田駅~JR羽犬塚駅周辺によくみられます。

嘉麻市中益 若八幡宮 - 美風庵だより

その様式を引き継いだ「実質的な玉垂宮」を筑豊で発見したときは驚いたものでした。

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社殿向かって左手にあるお宮が、どうやら福岡県神社誌にいう素戔嗚神社(祇園社)のようです。

福岡県神社誌:下巻48頁
[社名(御祭神)]高良玉垂命神社(武内宿禰、筒男三神、応神天皇
[社格]村社
[住所]三潴郡木佐木村大字絵下古賀字宮ノ前
[境内社(御祭神)]素戔嗚神社(素戔嗚命
(2021.02.27訪問)

 

白坂越え旧道を歩く

白坂越えはなぜ重要だったか。

秋月街道の脇街道に「白坂越え」があります。

何度か大きく道が付け替わっており原型をとどめていませんが、福岡県道66号がこれにあたります。

福岡県道66号桂川下秋月線 - Wikipedia

朝倉市嘉麻市の間の峠はかつては白坂峠と呼ばれていた。しかし、現在では峠の朝倉側のすぐ先から冷水峠の方へと分岐する福岡県道438号白川桑曲線が開通し、この道の朝倉市朝倉郡筑前町との境界にある峠の呼称となっている。この白坂峠の嘉麻市側では、遠賀川支流の泉河内川の谷沿いの道が旧道であり、白坂隧道を通り、川の対岸である飯塚市にも入っていたが、嘉麻市側に新しくバイパスが開通し、今ではこちらが県道として指定されている。旧道のうち、白坂隧道とそれより朝倉方面への1,727 mの区間は土砂崩れの恐れがあるため通行止めとなっており、南京錠の掛けられたフェンスで固く封鎖されている。
なお本道は、江戸時代には秋月から飯塚へ向かう秋月街道の脇道で白坂越と呼ばれていた。嘉麻郡穂波郡(あわせて現在の嘉穂郡)に藩領を持ち、藩外との輸送に遠賀川の水運を活用していた秋月藩の藩政にとっては非常に重要な道であった。秋月藩の参勤交代では八丁峠から秋月街道をまっすぐ小倉まで行くのではなく、この道から長崎街道へと入るルートを通行していた。

このwikipediaの記述はこの道の説明としては充分すぎるものです。ただ、これだけ読んでもなぜ秋月藩の参勤交代ルートがこの白坂越えだったのかが理解できません。

ここ最近、小中学生が発表した郷土学習の資料を眺める機会がありました。wikipediaくらいは誰でも調べられますからある程度は正しいのですが、白坂越えの経路があいまいなのです。ひどいものになると、県道438号を桑曲まで横切っていたと勘違いした記述までみられます。大人が補正してあげようにも、おそらくこのあたりを理解している大人も少ないのでしょう。

甘木の住民から見れば、同じ秋月藩領でも古処山地の北側は違う郡であり、中央から遠い鄙(田舎)で興味がないから、覚える必要もないのでしょうか……。

秋月藩・東蓮寺藩貢米蔵の跡の碑

福岡藩の秋月・東蓮寺(直方)両支藩は山鹿に貢米蔵と繋船場を設置し元和九年(一六二三)船奉行・御船手らを置き両蒲の貢米その他の産物を遠賀川の水運川ひらたを利用して、ここに集積、大阪蔵屋敷へ廻船搬送の任にあたった。秋月藩米蔵は元禄二年(一六八九)黒崎に移した。(略)

秋月藩屋敷跡 - 北九州市

所在地 屋敷二丁目11番
秋月藩屋敷は、福岡藩支藩秋月藩が領内の年貢を一時集荷・貯蔵した場所です。元禄2年(1689年)に芦屋から移されました
東西48間(約98メートル)、南北20間(約39メートル)を福岡藩から借地しました。
ここには、米倉と藩主の別館のほか、海には波止場も設けられました。
蔵屋敷は、藩籍奉還の明治2年(1869年)まで機能しました。

黒田長興公が立藩して最初の蔵屋敷は、遠賀郡芦屋町の山鹿に置かれました。長興公の死後、福岡本藩から借地し、現在のJR黒崎駅付近に蔵屋敷を移します。

米や特産品の通商拠点としてだけでなく、江戸に向かう定期船を待つ殿様の別館も設けられており、重要な出先でした。

この蔵屋敷の位置(芦屋や黒崎)を考えると、田川を抜けて小倉に向かう秋月街道ではなく、白坂越えが重要視された理由がわかります。白坂越えで現在の飯塚市天道や嘉麻市上臼井(八反田)まで運び、そこから船運で遠賀川を下り、芦屋や黒崎に運び込んでいたのです。

goo.gl福岡県飯塚市の地図(スクロール) | ゼンリン地図・いつもNAVI

飯塚市天道の船着き場は、穂波川と泉河内川が合流する地点、JR天道駅から歩いて数分のところにありました。ここまで陸送するのもたいへんだということで、1795年に、嘉麻市上臼井にあらたな船着き場が開設され、こちらを利用するようになります。

その他の文化遺産(未指定文化財) - 嘉麻市ホームページ

八反田舟入場跡(秋月藩の米積出し場)
江戸時代に秋月黒田藩の領地となった上臼井地区には、年貢米を大阪の市場に運び出すための秋月藩蔵屋敷舟入場が置かれていました。
(略)
舟入場の開設により、夜須方面の年貢米も峠を越えて持ち込まれるようになり、その数3万俵に及んだということです。

八反田舟入場に白坂越え経由で持ち込まれるようになるまえは、夜須方面の年貢米は博多まで馬で運び、博多から芦屋・黒崎に回送されていました。

博多まで陸送するより、峠を越えても充分なメリットがあったということです。

今回歩いた経路

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白坂越えをすべて歩くとなると、桂川町飯塚市天道の境界あたりからずっとテクテク歩かないといけません。

さすがにそれは疲れるため、今回はとくに経路変更(道路の付け替え)が目立つ、桂川町内山田から嘉麻市泉河内のあいだを歩いてみることにしました。

今回紹介する白坂越えの旧道に相当する部分は、濃い茶色で表示しています。

駐車地点から旧白坂越えとの合流点までは濃い青線駐車地点への戻りは薄い青線で表示しています。この青線も、ほとんどが戦前の地図にある道です。現在の県道66号が、いくつかの道を統合し、山間部の複数集落をつなぐかたちで整備されたことがわかります。

なお、昭和30年代から60年代にかけて整備された旧県道66号も存在します(濃い緑)。

つまり、

(1)今回歩いた茶色の旧道

(2)旧道ルートを考慮するかたちで道路改良された昭和のバイパス路

(3)さらに付け替えられた平成新バイパス路(現県道)

の3つが、白坂越えには存在しているのです。

白坂越え旧道(桂川町内山田~飯塚市弥山君ヶ畑)

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福岡県嘉穂郡桂川町の地図(スクロール) | ゼンリン地図・いつもNAVI

嘉麻市泉河内と桂川町内山田の境界には橋がかかっており、この橋から飯塚寄りの分岐が、飯塚市弥山の君ヶ畑集落に向かう街道の一部です。

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川が桂川町嘉麻市の境界線になっています。橋を渡ると、嘉麻市立泉河内小学校(2014年に廃校)があります。この小学校、もともとは同地にあった猪鹿(とろく)小学校と内山田小学校を統合し、明治25年(1892年)に開校した経緯があり、桂川町内山田も学校区に含まれていました。
いまの感覚では境界をまたいで統合というのはピンときにくいかもしれませんが、猪鹿含む泉河内村も内山田村も秋月藩領だったことを考慮しておく必要があります。行政の境界線が明治になって変更されたあともしばらくは、親密な関係が続いたのでしょう。

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こちらは途中で撮影した現在の県道66号から、泉河内小学校に向かう入り口です。初めて現地を訪れたとき(なぜ校地が道の横ではないのか?)と不思議に感じましたが、この県道のほうがのちに出来たバイパス路であることを知り、納得した記憶があります。

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途中で休憩し、蚊取り線香に火をつけて腰からぶら下げておきました。

道幅はおおむねこんな感じで、乗用車1台分といったところでしょうか。舗装された比較的歩きやすい道に、手入れの行き届いた水田と遠方の緑、そして青い空、これで気温がもちいと低ければ文句ないのですが、とにかくこの時点で汗だくだくです。

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たしかこのへんが桂川町内山田の「二の尾」集落です。大きな石に猿田彦と彫られた石碑があり、なかなかの目印になってくれています。

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旧県道66号との合流点が見えてきました。ちょうど、嘉麻市東畑と、飯塚市弥山の君ヶ畑集落が見えてきました。江戸時代は同じ秋月藩領でしたが、明治になり嘉麻郡東畑村と穂波郡弥山村と違う郡に所属し、現在は嘉麻市飯塚市(旧筑穂町)の境界となっています。

電話帳の氏名データを検索すると嘉麻市東畑地区、飯塚市弥山地区ともに「伊藤」姓の比重が高いことがわかります。おそらく、川が郡境であったものの、実態は一体だったのでしょう。

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旧県道を歩いていくと、弥山方面から来た道との三差路に突き当たります。画像に赤枠で示しているあたりに、むかし西鉄の「君ヶ畑」バス停がありました。まだ私が中高生のころは1日2本、飯塚からの便がありました。旧筑穂町の路線はどれも儲からなかったのか、昭和末期に「嘉穂交通」という子会社に真っ先に切り離されてしまい、そして真っ先に全廃されてしまいます。

http://bus-para-photo.blush.jp/nnr_group/nb_chikuho/kaho1007.htm

こんな感じの緑と黄色の横線が入ったバスが、飯塚バスセンターにも複数出入りしていたものです。

しかし、すでに県道でなくなったとはいえ、案内板の文字が消えて「月内」としか読めないのには笑うしかありません。元は「秋月 内野」と書いてあったのですが……。

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地蔵堂があります。この地蔵堂は、この地で行き倒れになった旅人を弔うために建てられたもので、後日「神社めぐり」シリーズで取り上げたいと思います。

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西鉄バス廃止後、旧筑穂町のコミュニティバスが走ったりいろいろ変遷していましたが、現在は小中学校へ向かうスクールバス混乗で最低限の足を確保しているようです。

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筑穂町 - Wikipedia

1997年、国土地理院の発表により福岡県の重心地(北緯33度31分21秒 東経130度40分5秒)が町内にあることが分かり、福岡県のへそにちなんだ「これが筑穂へそ音頭」とその踊りを作って町おこしを展開していた。

そういやこういうものがあったな……と、なにげに看板を見ながら考えてしまいました。

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飯塚市内野(長崎街道内野宿)に向かう道と白坂越えの分岐点に差し掛かりました。

さらに白坂越えのほうを登っていくと、飯塚市の標識が見えてきます。ここから先は嘉麻市泉河内です。標識の近くから伸びる道が、これから越える白坂隧道(しらさかすいどう)開通前の旧道という話を聞いたことがあります。地図を見ると途切れており、どこに連れていかれるかもわからないため、今回は取り上げません。

白坂越え旧道(嘉麻市泉河内)

この セクションで取り上げる区間は、約2kmにわたり通行止め規制されています。今回は旧街道の実態を紹介するため歩いてみました。危険ですのでくれぐれも自己責任で参考にしてください。

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カーブを登っていくと、白坂越え旧道が見えてきました。車の離合のため道が広くとられています。

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1939年に開通した白坂隧道(しらさかすいどう)です。フェンスがあり厳重に通行止めされているため、まさに廃道といった趣があります。そして、フェンス付近に廃タイヤや洗濯機?の残骸が転がっており、不法投棄場所と化しています。

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まだ免許をとって間もないころ、旧県道66号は開通していたものの、このフェンスはなく、いちおう通行可能とされていました。

この標識をみて、これではこのトンネルに誘導してしまうではないか、不親切な、と感じたのを覚えています。

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トンネルを通り抜け、反対側から撮影してみました。もともと舗装されていた路面に土砂が流入し、それを猪がほじくってフカフカになり、さらに雑草がはびこってしまっています。

このトンネルが開通したのが1939年ですから、同じ県道66号でも現役の「秋月隧道(1934年開通)」よりも竣工年は新しいのに、このありさま。人が手入れをしなくなると、ここまで廃墟になるものなのですね……。

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石積みを乗り越えて土砂が流れ込み、一部の雑木も倒れ掛かっています。

やがて路肩と舗装路の境目がわからなくなり、倒木だらけになってきました。

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派手にぶっ壊れており、ここで引き返そうかとも思いましたが、それでは旧道を紹介したことにならないため、辛抱して歩きます。

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たんに壊れているだけでなく、この崩落地点があらたな川の流路になっているようで、どんどん水が谷に向かって流れ落ちています。路盤も浸食され、ガードレールがすっかり浮いてしまっています。

ガードレールってこんなに深く柱を埋め込むものなのかと、妙に感じ入ってしまいました。アスファルトが割れて谷底に落ちたら、助からないかもしれません。さすがに足がすくみます。

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崩落現場のさきには、滝がありました。滝からの流れでタオルを湿らせ、顔を拭いて休憩しました。まだこの時点で、通行止め区間の半分も歩いていません。しかもソフトバンクの電波は届きません。かろうじてGPSで現在位置を確認できているからよいものの……。

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どれだけ放置されつづけていたら、こんなに大きくなるのだろう?と思わず考えてしまいます。路肩と舗装路のすき間に種が入ってここまで大きくなったのか、それとも、根が伸びてここから出てきたのかは知る由もありませんが、廃道でなければありえない光景です。

さらにガードレールが途絶え、本当に車が通れたのかどうか疑わしい路幅(軽自動車でギリギリ?)になってきました。

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GPSを信じるならもうそろそろ通行止め区間が終わるはずだと思いながら歩いていくと、最後の最後に、大物がやってきました。靴がめりこむ真砂をよじ登り、なんとか越えます。

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ほとんど転がり落ちるように脱出してみると、なんと通行止めのフェンスの裏手でした。

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もうここから先はこんな目にはあわないだろうと油断していたら、路肩が崩落しています。周囲を見ると、むかしは田畑であったと思われるところに獣道らしきものがありました。従って歩くと反対側に出ます。もしかすると獣道ではなく、林業作業者が使用しているのかもしれません。

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それが証拠にしばらく歩くと、舗装路にトラクターや林業作業車のキャタピラの跡がついています。土地の所有者が、山林の手入れに来ているのです。

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現在の県道66号に合流する地点にやっとたどり着きました。18日に「秋月航空灯台跡」を訪ねた際に通った道です。数日前に通った道に合流しただけで、安心感がたまりません。

振り向くと、現在の白坂峠と、朝倉市嘉麻市の境界に建つ嘉麻市の標識が見えます。

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駐車地点まで歩いて引き返す途中、現在の県道66号から、旧道を見下してみました。

おそらく人生で二度、足を踏み入れることはないでしょう。貴重な経験をさせていただきました。

なぜ通行止め(事実上の廃道)になったのか。

旧道は路肩があちこち崩落しており、離合できそうなポイントも少なく道幅もせまく、よくまあこれを車道で認定したもんだと思うような道でした。

しかし、今回、徒歩で歩いてみて実感したのは、ほとんどトラバース路じゃないかとおもえるほど坂がゆるく、とにかく歩きやすい道であるということ。大力の岩骨から旧八丁越を秋月めがけて歩いたことがあるかたなら、遠回りでもこちらを選びたくなるほどの違いがあります。

当時も人馬が行きかう徒歩道としては、問題なく利用できたのではないでしょうか。年貢米を運び込むための道だったというのも、うなづけます。坂を人馬の力で陸送するのですから、たいへんだったのは間違いありませんが、旧八丁越や新八丁越に比べたら、これなら通商路としてあきらかに使える道です。

とはいえ、見るかぎり路肩はほぼ真砂で、削っても削ってもどんどん崩れるばかりだったのは間違いなく、車道として拡幅するくらいなら、イチから経路を付け替えたほうがよい、という判断に至ったのでしょう。かりにこの道を拡幅しても、大雨がくるたびにどこか崩落して維持管理がえらいことになっていたと思われます。

惜しむらくは、中途半端に車道化されてしまっていることです。旧八丁越のように車道がべつに建設され、徒歩道として遺構が残っているなら……歴史を知るための遺産として残せたかもしれません。

三潴郡大木町八町牟田 天満神社


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八丁牟田駅と大木町役場が近く、町の中心部と言ってよい場所に立地しています。なかなか拝殿の彫刻が美しく、屋根には梅鉢紋が打たれています。

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福岡県神社誌では境内社天満宮のみとなっていますが、実際には2社存在します。石祠のほうに「天満宮」の御神札が立てかけられていますので、こちらが天満宮なのでしょう。

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長い参道のあとに楼門があり、そして狛犬境内社があって、社殿がある。この地域の神社に特徴的な様式をしています。

福岡県神社誌:下巻49頁
[社名(御祭神)]天満宮(菅原神)
[社格]村社
[住所]三潴郡木佐木村大字八町牟田字宮内
[境内社(御祭神)]天満宮(道真公)
(2021.02.27訪問)

朝倉市甘水 岩村神社 再訪


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2月23日、旧稚児忘集落を訪問した際に再訪しました。社殿の隅に、大正14年(1925年)建立との棟木札がありました。まさかこの祠が大正時代の建築ということはないでしょうから、ふつうに考えれば、過去にここにあった社殿の棟木札ということになります。

気になるのは「安川村甘水深野中」とあること。つまり、この神社は深野集落が祀っている神社ということです。

朝倉市甘水 白木神社(北辰社) - 美風庵だより

甘水の深野集落というのは、北辰社(白木神社)のある辺りです。この神社は、いわば北辰社(白木神社)の奥の院的な性格のものだったのでしょうか。 

過去の訪問記録

朝倉市甘水 岩村神社 - 美風庵だより

2月23日の日録(稚児忘(ちごわすれ)登山 前編) - 美風庵だより

2月23日の日録(稚児忘(ちごわすれ)登山 後編) - 美風庵だより

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.02.23訪問)