松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

11月8日の日録

生活困窮者です。

朝8時半にチェックアウトして、宿泊したビジネスホテル周辺(地下鉄伏見駅、丸の内駅)周辺の神社めぐりをします。

f:id:bifum:20201108112427j:plain

桂新堂 - Wikipedia

海老煎餅 - Wikipedia

そのまま金山駅に移動して、桂新堂本店でお土産用にえびせんべいを購入し、その場で宅急便での発送をお願いしました。さすがにコンサートホールにお土産を持っていくのは邪魔です。店を出て写真を撮るとうまい具合に、黄色い落ち葉が写りこんでいます。秋ですね……。

f:id:bifum:20201108142512j:plain

14時過ぎに、しらかわホールに到着し、中部フィルの定期演奏会を聴くことが出来ました。

コロナウィルス対策で、曲間の休憩時間はずっと1階のドア全開です。天井から風が吹いてくるので見上げます。おそらく空調をつけて送風しているのでしょう。上から風を送り込み、ドア全開で換気する作戦です。はい、寒いったらありゃしません。ほんのさっきまで白川公園で30分ほど缶コーヒー飲みながら読書して時間を潰していたときのほうが、暖かく感じます。太陽の力って、偉大ですね……。

コンサート終了後、知人のお嬢さんがバイトしている松坂屋に向かって歩いてみました。

以前から、しらかわホールを出て、生活困窮者と同様に伏見駅に向かうお客さんと、逆方向に向かって歩き出すひとが少なからず居るのに気づいてはいたのですが、矢場町駅や名城線に向かって歩いている列なのだと、この日、初めて気づきました。

彼女がバイトしているらしいフロアを3周してみたのですが、わかりません。諦めて地下鉄で金山駅に移動し、名鉄電車で中部国際空港を目指します。

刀削麺 - Wikipedia

劉家 西安刀削麺 セントレア店 | 劉家西安刀削麺

中部国際空港で、今回も刀削麺をいただきました。甘辛く煮た牛肉のかたまりが載った醤油ラーメンといった感じですが、麺がきしめんよりも太く、太さが一様ではないため、食感が面白いのが特徴です。

福岡空港の到着口を出たのが21時40分でした。21時52分の熊本行き高速バスを宮の陣バス停で下車し、近くの学校前駅から甘木線で帰宅しました。

11月7日の日録

生活困窮者です。

秋山さんの演奏会を聴くため、久しぶりの名古屋行でした。

f:id:bifum:20201107111951j:plain

最初、福岡空港9時発の便を予約していたのですが、欠航となり、10時の便に振替になりました。そのため、到着も1時間遅れます。中部国際空港に到着したのが11時半手前でした。

ここ2年ほどの「神社めぐり」ブームにもれず、今回も、ゼンリン(いつもnavi)とgoogleマップで調べて訪問か所を選択しておきました。

f:id:bifum:20201107123115j:plainまず、熱田神宮を訪問しました。参拝後、今回も御神札を授与してもらいました。1,200円になっており、ここも値上がりしましたね……。あいかわらず授与所の巫女さんは愛想がよくありません。(とくに天皇教の総本山である神社本庁的に)大きな神社ほど「授与」という意味合いを応対で表現します。サービス業ではないから笑わないでよい、ということなのでしょう。

f:id:bifum:20201107124401j:plain
f:id:bifum:20201107124507j:plain

熱田神宮境内にある上知我麻神社に移動します。尾張国造の祖を祀る神社とされており、両脇に従えるのは事代主(えびす様)と大国主(大己貴)という時点で、中央はおおよそ大幡主(もしくはその一族)なのだろうと見当がつくのです。個人的には、熱田よりこちらのほうがはるかに重要です。

今回は、知人のおすすめで犬山城を目指すことにしていたため、熱田神宮付近の小さいお宮に寄り道し、地下鉄名城線金山駅に出て、名鉄電車で犬山遊園駅を目指します。

f:id:bifum:20201107125431j:plain

源頼朝誕生地〜名古屋:誓願寺〜

源頼朝 - Wikipedia

久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司藤原季範の別邸(現在の誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。
父祖は清和天皇の孫で臣籍降下した源経基多田源氏の祖の源満仲河内源氏の祖の源頼信前九年の役源頼義後三年の役源義家源義親、祖父の源為義[7]。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼寒河尼、山内尼。

熱田神宮からほんの数分のところに、源頼朝生誕の地があります。葵紋なのにぎょっと驚きましたが、おそらく跡地に建っているこの寺の紋章なのでしょう。

金山駅の辺りですでに小降りだったのですが、犬山遊園駅で下車すると、少し本降りに近い状況です。折り畳み傘を開いて、国宝犬山城を目指します。

f:id:bifum:20201107143914j:plain
f:id:bifum:20201107154025j:plain

途中、ゼンリンなどで見当をつけていた神社に立ち寄りながら犬山城を目指していたわけですが、初めての土地で一方通行や袋小路が多く道に迷い、しかも通常の観光客が立ち寄らない神社を結んで歩いているため、だんだん想定よりも時間が押してきました。

結果、犬山城そのものは遠くから眺めるだけにして、神社を重点的に訪問します。

一方通行の異様な多さは、犬山の中心市街地がほとんど区画整理せずに都市化したことを示しています。おそらくは江戸時代の成立であろう複数の神社が、徒歩数分単位で存在する貴重な地域です。歩きがいがあります。

f:id:bifum:20201107161648j:plain

最終的に、名鉄小牧線田縣神社を訪問して、7日は合計18社回ることが出来ました。

この日、最後に訪問した田縣神社は、御歳神と玉姫を祀るとされています。
なんのひねりもなく考えてみれば、(a)天之忍穂耳(英彦山大年神、天児屋根)と天鈿女(あめのうずめ、豊受大神、お稲荷さん)、(b)この2人の子である御年神と、その妻古計牟須姫(こけむすひめ)のどちらかだろうと見当がつくのですが、現地はなんと五七桐紋です。

少々面食らったのですが、境内を歩いて由緒の書かれた案内板などを読むうちに、どうやら桐紋は豊臣秀吉の関係で使われているものだと思い至りました。

すべての神社巡りを終え、地下鉄伏見駅まで辿り着き、ビジネスホテルにチェックインします。途中のコンビニで買った入浴剤を入れて風呂にはいり、ポテチでノンアルコールビールを呑みながら、忘れないようにこの日の記憶をメモしていきます。

IPhoneと外付の折り畳み式Bluetoothキーボードの組み合わせは、電車のなかでもホテルでも、さっと長文をメモることが出来、本当に便利です。

f:id:bifum:20201107191623j:plain

あらかたエディタでメモを作成し、自家製の丹参とサンザシの丸薬、柴胡桂枝湯をいただいて、まずひと眠りすることにしました。

小郡市三沢 稲荷神社(黒岩稲荷神社)


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

f:id:bifum:20200819124255j:plain

伊勢山神社を訪問して、そのままゼンリン(いつもnavi)をたよりにゴルフ場に向かう道路をすすんでいくと、お稲荷さんがありました。

最初、これが黒岩稲荷神社かと思い近づいて案内の看板をみると、どうやらここは「奥之院」のようです。あらためてgoogleマップを確認すると、さらに先に本社があるようなので、軽く参拝して、先に進みます。 

f:id:bifum:20200819124605j:plain

f:id:bifum:20200819124948j:plain
f:id:bifum:20200819125351j:plain

本殿と案内板のあるほうにあがっていくと、社殿がみえました。

最初、手前の神社がお稲荷さんの社殿だと思ったのですが、楠彦院神社・楠千代丸神社と扁額に在ります。どうやら摂社のようです。では本当のお稲荷さんの社殿はどこかと見回すと隣にありました。

社殿にたどり着いて気づいたのですが、どうやら私が上がってきたのは裏参道にあたるもののようで、社殿から見下ろす場所に、立派な石段があります。ちょうど、社殿に脱いだ上着をひっかけて、水筒やタオルを置いた状態で、上半身裸の男性がトレーニングをしていました。

社殿の写真がやたらと屋根ばかり写しているのは、その彼の荷物が写らないように配慮したためです。

自転車のところまで戻り、舗装された道をすすんでいくと、社殿から見えた(ほんらいの正面)参道と石段の入り口にたどり着きました。立派な案内板があり、以下に内容を書き写してみます。

黒岩稲荷神社の由来

黒岩稲荷神社の祭神は倉稲魂神でこの神社創建には次の様な由緒伝説がある。
安徳天皇の寿永四年壇の浦の戦いに敗れた平家の一門に慈禅尼と云う人があった。京都を去るとき平家の武運長久を伏見稲荷に祈願しその分霊をうけて西下したが平家は一の谷、及び屋島の戦いに敗れ遂に壇の浦の戦で安徳天皇は入水し給い悲惨の大事となった。
禅尼は密かに逃れて肥前の国の山奥や更に筑後の国高良山の庚申塚等転々と追討の手を逃れ、遂にこの黒岩山に移り岩穴に隠れ霊を祀り朝夕礼拝を続けた。
これが後鳥羽天皇の御代(西暦一一九〇年)の末期のことである。その後禅尼は肥後に潜伏している一族の思慕の情に堪えきれず密かに彼の地に去って帰らず。茲に禅尼に付添って来た源三郎介と言う武士が禅尼の志を継ぎ祭祀の礼を続けたのがこの神社の始まりだと言われている。
以来今日まで郷土の人々の崇敬篤く寛延二年筑後の領主有馬頼徸の奥方が主人の昇進を祈願され霊験あって左小将の位に昇進されたので社殿を建立更に宝暦十二年有馬頼貴公は奥方の病気平癒の返礼に明和二年、参道の敷設と鳥居一基を献上された。これが南方百メートルの旧参道に今尚現存するものである。
昨今では鎮火・商売繁盛・学業成就等の神として遠近からの参詣者が多い。
この社殿は昭和二年に改築され毎年二月の初午の日に例祭が行われ露店の燈真は火除けの印として亦初午「おこし」はここ独特の手毬のような色とりとりで染めた美しさはお土産品として参詣者に喜ばれている。

以上

何も知らず、最初はゴルフ場の屋敷神かと思っていたのですが、どうやらゴルフ場があとからできたもののようです。しかし、この慈禅尼とはいったい誰なのでしょうか。 

http://visnet.ne.jp/ep/chieikasu/column/column231.html

もう一つ印象的な伝説として、鬼山御前の話がある。
鬼山御前は、屋島の戦いで源氏方の那須与一が射抜いた扇の的を持っていた女官・玉虫御前であると言われている。落人となった玉虫は、鬼山と名を変えて、弟の久茂と五家荘に通じる柿迫の岩奥というところに落ち延びた。鬼山御前は絶世の美女との誉れも高く、話を聞いた高名な画家が3枚描いた肖像画の1枚が現存している。
平家の追討を命じられた那須与一の嫡男・那須小太郎宗治が、五家荘に入ろうとした時に、「この先には人は住んでいません。しばらくここで疲れを癒やしませんか」と引きとめて暮らすうちに、小太郎が、美女で心根の優しい鬼山御前と恋に落ちて結ばれたとのこと。鬼山御前は、多くの子供を育て、『乳の神様』として、泉町の保口若宮神社に祀られているとのことである。

鬼山御前の伝説

平家の官女、玉虫御前は屋島の戦いに敗れ四国より日向を経て、弟と共に源氏の追討をさけ、名も鬼山御前と改名し、柿迫村岩奥にすみつきました。
その頃源氏の追討はきびしく那須与市の弟大八が、平家の残党を追い求めて、椎葉村まで参りましたが、大八の帰国がおそいので、那須与市の嫡男を第二の追討に差向けました。
那須の軍勢は、岩奥を通り五家荘へと向かいました。
岩奥に住みついていた鬼山御前は、那須の軍勢の後を追い、同じ同族の平家を討たせてはならぬとやっとこの地、保口にて追いつき「この奥は人の住む所ではない、ここに留まって様子を見ては」と引き留め、那須与市の嫡男と鬼山御前との共同生活が始まり、そのままこの保口で一生を過ごしたと伝えられます。
(保口の那須家は、その子孫とつたえられる)

慈禅尼が去った肥後は、玉虫御前の故郷です。なにか御縁があったのでしょうか……。

 

----------------------------------------
福岡県神社誌:下巻421頁
[社名(御祭神)]稲荷神社(倉稲魂神
[社格]無格社
[住所]三井郡三国村大字三澤字黒岩
[境内社(御祭神)]記載なし。
----------------------------------------
(2020.08.19訪問)

佐賀県三養基郡基山町小倉 伊勢山神社


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

f:id:bifum:20200819123320j:plain

f:id:bifum:20200819123250j:plain
f:id:bifum:20200819123428j:plain

まず、境内の案内板を抜き書きしてみたいと思います。

伊勢山神社の由来

祭神 天照皇大神 萬幡姫命 手力雄命

伊勢山神社創建については人皇代第六十二代村上天皇の天暦九年(九五五)十一月時の県主が伊勢神宮の分霊を勧請したものと伝えられる 後荒穂宮の五所宮の一として荒穂宮より神饌を奉っていた 後世この地が対馬島主宗氏の所領となり当社を領地の鬼門鎮守神と仰ぎ別に神職を置いて奉仕させ且つ神宮の大麻領布せしめていたが伊勢神宮より大麻領布するようになると領内領布の総元と定めたれたこれより伊勢山神社の称が起こった明治六年村社に列せられたが祭事は古来通り神課二十人にて行うことになった

境内に埴安社(祭神 埴安彦命)を祭る

古より御神期と称し六十年毎に大祭二十年五智に小祭が行われている 大祭は近くは弘化四年(一八四七)明治四十年 昭和四十二年であった 古の御神期の神事に当たる者は七日間家に帰らず神社に泊り込みで水垢離をとり身を清めて奉仕したという

伝説によれば光格天皇天明年間に大飢饉が続いた上に眼病が流行し住民が困窮していたとき当社の一番下の石段の東側にあった?の古木の虚になっている中から滴り落ちている清水が眼病に効験があるとの噂が広がりその霊水を頂きに筑後筑前はもとより肥後あたりからまでも参拝者があり社頭は大いに賑わったという その神木は生け垣で囲んであったが今は枯れてなくなりその跡に楠が植えてある

一千年の歳月に御神体も表裏の識別もできないまでに風化していたので昭和九年鳥栖町の堀彫刻師に依頼して新たに刻み筑紫神官により御神入れを行った この御神体に紀元二千五百九十五年と刻み後世に遺した

昭和十九年時の町長天本龍之助氏の仲介により伊勢山神社の資産とともに祭事一切を小倉区に移管した

昭和四十七年四月九州自動車道建設に伴い社地の一部がその用地として買収されたので神殿は古来の神明造りのままとし西側に移転新築して現在に至る

御祭神が天照大神、(天照大神と高木大神の娘)萬幡豊秋津姫、スサノオ手力雄命)という、脈絡のみえないとりあわせなのが気になります。伊勢山と言いながら、豊受姫(天細女:あめのうずめ)の姿はみえません。どこかで祭神が入れ替わっているのでしょうか。

また、境内をぐるりと一周してみましたが、埴安命こと大幡主(博多のお櫛田さん)を祀る埴安社が見あたりません。社殿に合祀されているのでしょうか。

考えてみるに、博多の櫛田神社と同様、大幡主、天照大神スサノオがほんらいの祭神だったのではないか、というのが一つ目の見立てです。のちに大幡主が社殿からおろされ、代わりに萬幡姫が加えられたのではないでしょうか。高木大神の娘は二人居て、豊玉彦(豊国主・豊前坊)の妃となった萬幡豊秋津姫と天之忍穂耳(海幸彦)の妃となった栲幡千千姫を、日本書紀古事記はわざとごっちゃに書いています。

 

小郡市大崎 媛社神社(七夕神社) 再訪 - 美風庵だより

佐賀県鳥栖市姫方町 姫古曽神社 - 美風庵だより

まともに記紀を読むとこれだけでも煙に巻かれてしまうのですが、さらにこの地域は、織女神の伝承をもつ地域です。織女神は、天之忍穂耳の妃のひとりだった市杵嶋姫のことですから、じつはこの萬幡姫とされているのは、市杵嶋姫ではないか、とも考えられるのです。すると、その実父であるスサノオが一緒に祀られているのもよくわかります。ただ、この見立てをとると、天照大神が宙に浮きます。イザナミなら系図上しっくりくるのですが、それではなぜここが「伊勢」とされてきたのかが、わからなくなってしまいます。なかなか謎です。

神明造の本殿に男千木がかかっているところをみると、ほんとうに主祭神天照大神なのか?という気もしてきますが……。

(2020.08.19訪問)