松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市草野町吉木 秋葉神社


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福岡県神社誌には、加具土命(金山彦)を祀る神社が2つ掲載されています。片方は社名が愛宕社となっており、社名が違いますのでこちらを比定させていただきました。

現地を訪問すると立派な藤棚の奥に、2つ石祠が設置されています。真ん中は秋葉社と読めますが、正面向かって左手は、「山神社」と書かれているようです。

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福岡県神社誌:下巻419頁
[社名(御祭神)]秋葉神社軻遇突智命
[社格]無格社
[住所]三井郡草野町大字吉木字吉ノ尾
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.07.26訪問)

久留米市草野町吉木 若宮八幡宮


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この若宮八幡宮は県内でも有数の神社なのはたしかですが、由来がはっきりしており「神社めぐり」で取り上げる優先度は低いと考えていました。
今回、ほぼ20年ぶりの訪問です。

訪問した当日、車道側から自転車を押してあがる途中、熱射病で立ちくらみをおこしてしまいました。吐き気を我慢しながら横になり、耳鳴りが少しおさまってから、やっと参拝しました。手水舎のところにポリタンクが2つあり、そこから水をバケツに移して、神職の方が拝殿に向かっておられました。水道が来ていないのでしょうか、それとも、井戸が枯れたのでしょうか?

福岡県神社誌には、文治3年(1187年)に、当地を治めていた草野永平が勧請したとあります。勧請元の記載は神社誌にありませんが、その他の資料では現在の難波神社からの勧請とされています。

武家家伝_草野氏

草野氏は藤原北家を源流とする氏族を名乗っていましたが、家紋が十二日足紋という時点で、どうも胡散臭く感じます。おそらくは熊襲の流れを組む豪族が、武士化したものでしょう。長寛2年(1164年)に、高木永経が肥前国佐賀郡高木庄から筑後国山本郡草野荘に移住し、地名をとって高木氏から草野氏を名乗るようになります。これが、草野氏のおこりです。やがて伊豆の源頼朝が挙兵すると、草野永経は源氏方に味方します。文治2年(1186年)に源頼朝から御井郡御原郡・山本郡を所領として安堵され、以降、戦国時代までこの地を統治することになります。

鎌倉幕府のイメージから、源氏というと東国とおもわれがちですが、ほんらいは河内源氏であり、現在の兵庫県川西市あたりを本拠としています。鎌倉の鶴岡八幡宮は、大阪府羽曳野市の壷井八幡宮からの勧請とされており、本拠地の移動にともない、神様もあわせてお引越しした例です。

久留米市大橋町蜷川 箱崎八幡神社(筥崎八幡宮) 再訪 - 美風庵だより
久留米市大橋町の箱崎八幡神社は、この若宮八幡宮の仮宮が置かれた場所と言われています。
建物の竣工が、御神体の到着には間に合わなかったのでしょうか。

昭和9年(1934年)に高良玉垂命住吉大神を御祭神に加えたという福岡県神社誌の記述も気になるところです。

訪問当日、神職の方が拝殿の雑巾がけをされておられましたが、訪問時点でここまで考えが及ばす、この点について質問することが出来ませんでした。ただ、おそらくはすでに祀られていた御祭神を、公式に表に出したものと考えて間違いないでしょう。
高良玉垂命は、仁徳天皇の実父であり、その高良玉垂命に神器を譲ったのが住吉大明神 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)という関係です。

高良大社の御祭神は、真ん中が高良玉垂命で、右が八幡大神、左が住吉大神となっています。この住吉大神が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)のことを言っているのだろうとは以前から思っていました。また、これまで八幡大神については、宇佐神宮との関係で応神天皇を押し付けられたのだろうと考えていました。確信はないものの、この若宮八幡宮をみるかぎり、仁徳天皇八幡大神としているのではないか、という気がします。もしそうであるとしたら、この若宮八幡宮高良大社は、御祭神の順序は違えど、同じ神様が祀られているわけです。

しかし。果たしてそこまで草野氏が考慮してこの神社を創建したのでしょうか。
もし伝承を正しいとすれば、難波神社から勧請した時点では仁徳天皇を祀る神社で、長い歴史のなかで、玉垂宮化していったことになります。むろん800年前ですから、今とは比べ物にならないくらい高良玉垂宮の記憶が残っていたでしょうし、その影響を受けたことは十分考えられるでしょう。

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社殿正面向かって右手に、小森社と草野社があります。
草野社は、草野氏歴代の霊を祀り、小森社は、草野氏最後の城主 草野鎮永を祀る神社です。
戦国時代、大友氏、高良山座主、秋月氏と戦い、竜造寺氏・島津氏と主を変えながら生き延びた草野氏も、いまは日田に逃げ延び、草野本家にかろうじて名残をとどめています。

草野本家公式ホームページ


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福岡県神社誌:中巻157頁
[社名(御祭神)]若宮八幡宮仁徳天皇 相殿左、住吉大神、右高良大神)
[社格]県社
[住所]三井郡草野町大字吉木字若宮尾
[境内社(御祭神)]春日神社(天児屋根命)、加茂社(大山咋神)、稲荷社(倉稲魂命)、素戔嗚尊社(素戔嗚命)、草野社(草野太郎永平歴代之霊)、小森神社(草野鎮永の霊)、高木神社(高木神)、三光社、山神社(大山祇神)、秋葉神社軻遇突智神)、太郎社(太郎左近)、猿田彦社(猿田彦神)、今宮神社(応神天皇
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(2020.07.26訪問)

北九州市小倉北区上到津1丁目 到津八幡神社


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到津八幡神社

今回訪問するにあたり、福岡県神社誌をまず確認しました。恐ろしいほどの摂社・末社が掲載されており、境内の状況が見当つきません。社殿の周囲にずらりと境内社が並ぶようなスタイルなのだろうかと考えながら、石段を見上げます。googleマップを確認すると、車道があるようで、石段をあがるよりは楽でしょうから、そちらのほうに迂回しました。

到津八幡神社とは|到津八幡神社

到津八幡神社の歴史はまことに古く、神功皇后三韓征伐の後、宇美の里で御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、御座船を当地に着けられました。後に一祠を建て皇后の和魂をお祀りしたのが当社の起源といわれています。神功皇后の御霊をお祀りしたことから、人々は安産を願うようになりました。社前の川水を汲み、産湯として使われるようになったといわれています。
現在、この川は板櫃川という名称ですが、別に「産川」(ウブカワ)とも云います。また、川の付近には「産川町」という町内もあります。
文治4年(1188年)宇佐八幡大神を勧請し、祭祀には宇佐の支族が任ぜられました。永禄4年(1561年)大友義鎮が宇佐宮を攻め廟社堂一宇も残らず焼きはらいました。やむなく、宇佐宮の神官・社僧は神輿を守護し奉り、天正11年(1583年)までの23年間、神璽を到津社に遷座しました。以後、細川氏・小笠原氏の篤い崇敬を受け社殿等の改築がなされ、現在に至っています。

境内に1400年祭記念事業奉賛金の案内板が残されていました。帰宅するまではそちらから文字おに起こそうかと考えていたのですが、おおまかな経緯については、ホームページの記載のほうがわかりやすいようです。そちらを引用しました。

宇佐神宮 - Wikipedia

平安時代中頃までは大神氏が務めたが、神主職を菟沙津彦 (ウサツヒコ) らの子孫・宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏である宮成氏、到津氏、岩根氏、安心院氏が大宮司世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。
鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。以後この2家が交互に大宮司職を継ぎ明治に至っている。なお、一時宇佐氏一族の出光氏も大宮司となっている。
戦後、祝氏・宮成氏が男爵を返上し宇佐氏に復して祭祀を離れ、以後は到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。

 以前、宇佐神宮の神主さんの姓が「到津」というのを知ってから、この神社となにか関係があるのかと気にはなっていました。どうやら、この地は宇佐神宮の有力な拠点だったようです。大友宗麟に焼き討ちされ、23年の間、この地に宇佐神宮遷座していたというのは、それだけの理由がある土地でなければ、選ばれません。支援者が現れて宇佐に社殿を建ててくれなければ、ここがそのまま宇佐神宮となった可能性もあるわけですから……。

想像に反して、境内はすっきりとしています。おそらく、福岡県神社誌に記載の摂社は、氏子区域内にあった神社を合祀した記録が元になっているのではないでしょうか。これらは、現在境内にある、若宮神社、稲荷神社、水神社、貴船神社に整理統合されてしまっているのでしょう。

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日田市田島 大原八幡宮 - 美風庵だより

小倉陸軍造兵廠 - Wikipedia

駐車場にあるお稲荷さんを眺めていて、錦春稲荷神社という名前に驚きました。すでに日田市田島の大原八幡宮で、錦春稲荷神社を訪問しています。そのときの日記を読んでいただくとわかりますが、元々は東京ドームのところにあったものが、陸軍の兵器工場移転にともない小倉に分祀されました。さらに疎開先の日田にも分祀され、現在は大原八幡宮の境内にお祀りされているのは、既述のとおりです。このお稲荷さんも、どんな運命のいたずらだと感じているでしょうか。

 

気になるのは、御祭神に豊日別命こと豊玉彦(豊国主)が加えられていることです。本家の宇佐神宮にはありませんので、宇佐神宮で上書きされる前は、豊玉彦を祀る神社があったのでしょう。

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福岡県神社誌:下巻126頁
[社名(御祭神)]到津八幡神社息長帯比売命和魂、息長帯比売命荒魂、品陀和気命市寸島比売命多岐都比売命、多紀理比売命、豊日別命)
[社格]県社
[住所]小倉市大字板櫃字村ノ上
[境内社(御祭神)]若宮神社(大雀命、速秋津比古神速秋津比売神、顕仁天皇須佐之男命、弥都波能売神)、貴船神社(高淤加美神闇淤加美神闇御津羽神)、稲荷神社(宇迦之御魂神)、大疫神社(稲田姫命事代主命須佐之男命、大穴牟遅神、事代八十命)、貴布禰社(高淤加美神闇淤加美神闇御津羽神)、荒生田神社(少彦名神、藤原廣嗣、弥都波能売神)、水神社(弥都波能売神)、水神社(弥都波能売神)、水神社(弥都波能売神)、心吉神社(建御名方神事代主神大国主神)、貴船神社(高淤加美神闇淤加美神闇御津羽神)、稲荷社(宇迦之御魂神)、大山祗神社(大山津見神品陀和気命須佐之男命)、神明社天照皇大御神、豊受皇大御神)、南宮神社(大山咋神)、愛宕社(加具土神)、鹿島社(建御雷神、加賀瀬雄神)
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(2020.07.23訪問)

北九州市小倉北区篠崎1丁目 篠崎八幡神社


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【篠崎八幡神社 ―北九州市の八幡様―】

手入れの行き届いた素晴らしい神社でした。ほんらいは朱塗りが正解なのでしょうが、弁柄色のほうがシックで映えます。どこか神社としての落ち着きも増すようです。

【篠崎八幡神社 ―北九州市の八幡様―】 〓ご紹介〓御由緒〓

仲哀天皇9年、神功皇后三韓を攻め、凱旋して筑前国宇美にて皇子(後の応神天皇)を御出産。
翌年、穴戸(長門)の豊浦宮に向かう途中、鷹尾(高尾)山にさしかかると、皇子は山頂の大石を見るやその上に初めてお立ちになり、長浜や文字ヶ関(門司)から遥かに穴戸の方角を望み、「穴戸は近し」と言われたと伝わります。
敏達天皇12年、勅命によってこの故事に基づき、鷹尾山の麓、朝倉谷において応神天皇神功皇后仲哀天皇を祀り、葛城小藤丸をして祭祀に当たらせました。「篠崎神社」の創建です。(鷹尾山は現在地の約1㎞西にあったといわれています)
天平2年(730)宇佐八幡宮より分霊を勧請。「篠崎八幡神社」と改めました。

 ホームページから由緒を引用しました。現在の宇佐神宮では、比売大神を宗像三女伸と充てており、玉依姫の存在は消えています。玉依姫を御祭神にいまも残しているところに、篠崎八幡神社の誠意を感じます。表向き、ホームページでは「鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の妻となり神武天皇を産んだ」と、記紀にならって紹介していますが、これはおそらく嘘とわかってやっていることです。

嘉麻市泉河内 泉河内八幡宮 再訪 - 美風庵だより

宝満宮と八幡宮が、戦前は誰がメインかの違いであったことはすでに書きました。

玉依姫鵜葺草葺不合命のあいだに出来た子は、安曇磯良であり、神武天皇ではありません。玉依姫と大山咋のあいだの子が、のちの崇神天皇であり、崇神天皇神功皇后のあいだに出来た子が、応神天皇です。

すでに何度も書いたことですが、記紀ではわざと崇神天皇神武天皇を混同し、系譜の背乗りを行っています。このごまかしを可能にしたのは、本物の神武天皇の母親も玉依姫という名前であったことです。孫が祖父を産むに近い世代間のズレを、同じ神様に複数の名前を与えて煙に巻き、水増しすることで帳尻をあわせました。おかげで各地の神社伝承と記紀にはズレが発生し、こうやって謎解きを楽しめるわけですが……。

この神社の境内には摂社が複数あります。最も立派なのは賀茂宮で、江戸時代に勧請されたもののようです。御祭神の加茂別雷命とは崇神天皇のことだと考えれば、祖母の市杵嶋姫命と、息子の応神天皇と合祀されていることになります。

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しかし、私がもっと気になったのは、宮地嶽神社の存在です。福岡県神社誌の篠崎八幡神社の項目に宮地嶽神社の記載はなかったのでよく調べると、無格社として別に掲載がありました。つまり、別格の扱いをうけているわけですが、多数の神社を合併し、御祭神は40柱を超えています。

気になるのは、以前からここでお祀りされていたものか、江戸時代に宮地嶽大明神を勧請したものなのかという点です。御祭神のなかに「事勝国勝長狭神」があります。早い話が大幡主(博多のお櫛田さん)のことです。豊国主(豊日別命)の実父でもあります。さすがに40柱のなかの一人ですから強調しすぎるのははばかられるのですが……。

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この高雄神社は、もともと篠崎八幡神社があった高雄山に鎮座していた神社で、保食神を祀っていたところに、江戸中期、大山祗を合祀したとのことです。明治以前は、福智神社と呼ばれていたとのこと。

私の実家のところにある氏神様を地元では「ふくっちゃま」と呼びならわしていました。ところが誰を祀るのかがわかりません。祠に鷹の羽紋がついていたことから、おそらくは「福智社」がなまったものであり、英彦山の関係であろうと仮定したところで、なんとなく答えを見つけた気になり、それ以上深追いはしてきませんでした。

目の前に、保食神を祀る元福智神社があるわけです。驚きました。保食神が必ずしも天細女(あめのうずめ)であるかどうか、現在でも確証がもてないでいるのですが、ここでは天細女(あめのうずめ)の別称として考えてみることにします。

【篠崎八幡神社 ―北九州市の八幡様―】 〓ご紹介〓境内〓

平成二十六年十二月吉日竣工。前年の平成二十五年は、第六十二回式年遷宮という節目であることから、神宮の神殿建築「神明造」を採用。

天細女を神宮の外宮では、豊受大神として祀ります。篠崎八幡神社を守護する神として、事実上、外宮をお招きしたのと同じことになるわけです。おそらく神社関係者はわかっておられるはずですが、天細女の子が本殿に祀られている(崇神天皇を産んだほうの)玉依姫です。これらをひっくるめて、敢えて豪勢な神明造を採用したのでしょう。

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福岡県神社誌:下巻128頁
[社名(御祭神)]篠崎八幡神社帯中津日子命息長帯比売命品陀和気命市寸島比売命多岐都比売命、多紀理比売命、玉依比売命
[社格]県社
[住所]小倉市大字篠崎字宮尾
[境内社(御祭神)]加茂宮(加茂別雷命、品陀和気命市寸島比売命)、八雲社(須佐之男命、櫛名田比売命)、疫神社(大己貴命少彦名命)、幸神社(猿田比古神)
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福岡県神社誌:下巻448頁
[社名(御祭神)]宮地嶽神社保食神、胸形三柱大神、神功皇后、事勝国勝長沙神、国勝長勝面勝神、闇弥都波神、闇淤加美神、誉田和気尊、住吉三神、菅原神、大蔵春実朝臣、新田義基朝臣
[社格]無格社
[住所]小倉市大字篠崎字高雄
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.07.23訪問)