松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県佐賀市与賀町 與賀神社


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与賀神社 - さがの歴史・文化お宝帳

主祭神  
与止日女神(よどひめのかみ)
〔=豊玉姫命(とよたまひめのみこと)〕  海の神、神武天皇の祖母
    
配祀神 
八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫
住吉神 綿津見命(わたつみのみこと) 海の神 
乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん) 海の神
印鑰神 天児屋根命(あめのこやね) 祝詞の神様   
応神天皇(おうじんてんのう) 八幡大神、武門の神様
菅原道真公(すがわらみちざねこう) 学問の神様

御神徳 
豊玉姫命は神武天皇の祖母、海神の娘で龍宮城のお姫様です。海の神、山の神、水の神として広く信仰され、安産の神様です。また、武門の神様、学問・祝詞の神様が祀られており、鎮護国家・安産育児・交通安全・学問武道・殖産開運などにご神威あらたかです。

與賀神社の由緒
欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられています。
ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513年)には神階一位に進められました。
室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。
その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。
鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。旧社格は大正14年に列せられた県社である。
鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。
当社の参道は八丁馬場(与賀馬場)といわれ、千数百メートルの間に3基の石造りの肥前鳥居がある(国重文)。
三の鳥居は「佐賀荘正一位与止日女大明神」の銘をもち慶長8年(1603)鍋島直茂夫人藤女によって建納されたものである。八丁馬場は武家屋敷であったといわれている。社前の鳥居をくぐって、小川に架けられた石橋は慶長11年(1606)に建立されたものである(国重文)。それを渡って朱塗りの楼門(国重文)は県内で最も古く全体の様式は和様であるが部分的に唐様の手法も使用されている。
境内には大クス3本があるが拝殿の南側にあるクス(県天然記念物)が最大で樹齢1,400年と推定され、そばに青木月斗の「我に迫る三千年の楠若葉」の句碑がある。

田川郡川崎町安眞木 川上神社 - 美風庵だより

久留米市北野町金島 四柱神社 - 美風庵だより

柳川市大和町鷹ノ尾 八歳神社 - 美風庵だより

與止日女とはだれか?という点は、過去にもいろいろと各地の神社伝承を参考にいろいろ書いてみました。いまのところ、與止日女とは神功皇后の姉妹豊姫のことで、別称川上大明神であり、安曇磯良との間に大祝日往子、高良玉垂命とのあいだに菟道稚郎子をもうけたと理解しています。

この与賀神社では、與止日女=豊姫ではなく、豊姫の祖母(父 鵜葺草葺不合命:うがやふきあえず の母)にあたる豊玉姫としています。記紀神話と整合がとれるよう改変されています。

ただ、さすがに完全な隠ぺいはできておらず、八幡神に彦火火出見尊、つまり五十猛命=山幸彦=猿田彦という、見るひとがみればほんとうがわかる仕掛けは用意されています。

與賀神社 - Wikipedia

与賀城を築き、神社を城の鎮守として修復するなど多大な貢献をした少弐政資を與賀神社再興・郷土開発の守護神として祭る神社。昭和27年(1952年)に重要文化財の楼門解体修理落成を記念して建立された

https://yokajinjya.sagafan.jp/

宝壽森稲荷神社 
・御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)
230年位前から祭られている。石祠に「正一位宝寿稲荷大明神安永き庚子六月二六日」と刻印あり。

 

クスノキの裏にも境内社があります。画像左手が淡島大明神と佐太大明神、画像右手が天満宮です。

樹齢1,400年のクスノキは、幹の盛り上がり方がえらいことになっています。

社殿正面むかって左側には佐賀恵比須神社と、これまた大きなクスノキがあります。

與賀神社 - Wikipedia

佐賀恵比須神社
明治37年(1904年)に地元の有志が兵庫県・西宮神社の御分霊を戴き祀ったのが始まり。毎年1月9日、10日には「十日恵比須大祭」が開かれ新春の恒例行事となっている。佐賀市は市内の恵比寿像数が日本一として恵比寿を用いた街づくりを行っており、その中心的な存在ともなっている。 

佐賀恵比須神社の社殿の周囲にも、えびすさまが並んでいます。

ここにも、境内の隅に庚申塔やえびすさまが複数集められていました。町内の各戸でお祀りされていたものでしょうか?

與賀神社 - Wikipedia

重要文化財(国指定)
与賀神社楼門
室町時代後期 - 安土桃山時代。1913年(大正2年)、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。総丹塗で正面三間、側面二間、屋根は入母屋造で当初こけら葺であったが後世銅板葺屋根に改められた。楼門は、与賀城の城門が残っている伝承がある

城の城門にしては、やはり寺社の楼門っぽい感じがします。

(2022.12.09訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2022年12月9日の日録 - 美風庵だより