松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福津市津丸 神武神社


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二の鳥居の扁額は「六権現」とあります。

神武神社

一、所在地
 福間町大字津丸字裏谷
二、祭神
 神日本磐余彦命(神武天皇)
 媛蹈鞴五十鈴姫命(同皇后)
三、由緒
 当社は、此の村の氏神なり。神武天皇が東征の折、この地に鳳輦を駐め給う。その陣跡に社を建立す。神武天皇が天照大神から六世に当り給う故「六権現」と号し奉ると申し伝う。その後明治に入り「神武神社」と改称す。
四、社殿
 昭和四十七年(一九七二)全面的に改築された。その時に大量の土器等が出土したことから、社殿一帯は奈良・平安時代の祭祀遺跡であったと考えられている。
五、祭事
 拝賀式 一月一日
 宮座 七月・十一月の第二日曜日
六、その他
 境内には、二百年を越すイチョウ・イチイガシ・スギ・イヌマキなどの大木がある。また区民によって毎月清掃活動がなされている。

参考文献
 宗像郡史、福間町史、ふるさと文化財探訪記

平成十六年正月 氏子会

宗像市王丸 六之神社(許斐神社) - 松村かえるの「かえるのねどこ

福津市上西郷 大森神社(大森宮) - 松村かえるの「かえるのねどこ」

さきに訪問した宗像市王丸の六之神社や、福津市上西郷の大森宮では、それぞれ6柱の神さまを祭神に充てています。

とくにこの津丸の地は大森宮(大守六社宮)の支配下にあった時代があるわけですから、もとは神武東征の聖蹟だった場所に六権現が出来、やがて明治の神仏分離で聖蹟地であることを前面に出して、神武神社としたものと解するのですが、どうでしょうか。

社殿は鉄筋コンクリート造です。本殿は外の覆屋だけがこの姿なのか、社殿そのものかは、外観からは判然としません。

沖ノ島様の右

津丸区西部の玄界灘を望む大字津丸字松/城戸、標高50m余りの丘(雑木林旧地権者藤田肇さん)まで100年程続けられて来たという「沖ノ島様祀り」がありました。
そこに鎮座していた石が「沖ノ島様の石」と呼ばれています。明治の終わり(1910)頃は、日清・日露戦争それに水害や流行り病で人々が苦しんでいました。そのこと藤田金作さん(肇さんの父・勝輝さんの祖父)や津丸区の有志が、何とか苦しみをしずめたいと願って日露戦争記念の5月27日に、玄界の望めるこの丘でその「沖ノ島様祀り」(おこもり)を始めたのです。そのとき地元の庭で大切にされていた石が、木橋に乗せ牛に引かせて運び上げられたそうです。
しかし、平成11年(1999)桜川団地造成に伴って永く続けられて来た「沖ノ島様祀リ」が中止となってしまいました。一方、その造成工事と並行して遺跡の発掘調査が実施、現地説明会も行われました。その際、参加者の多くから「沖ノ島の石」を津丸区で保存してほしいとの要望が出て、そのことを福間町教育委員会へ申請し許可されたのです。
そこで、関係者が造成工事中の東急建設と松原組に依頼してこの石を丘の上からまで出それをリレー式で松尾造園・山﨑建築によって神武神社境内へ搬入、平成12年(2000)3月12日に仮安置されたのです。
その後津丸区・神社総代・区有地管理組合・福祉会等代表者で「沖ノ島様の石」台座設置委員会が設けられ協議の上、平成18年(2006)11月初め山﨑建築で施工され同年11月13日に竣工しています。今回それらの事績をまとめた由緒板を作成し奉納致しました

※参考資料「津丸の歴史と文化財」ほか

境内社は画像左の大きい祠と、右手の小さい石祠がありました。福岡県神社誌に記載の3社のどれがどれかまでは、わかりませんでした。

福岡県神社誌:上巻162頁
[社名(御祭神)]神武神社(神日本磐余彦命、蹈鞴五十鈴姫命)
[社格]村社
[住所]宗像郡神興村大字津丸字四郎丸
[由緒]当社は此村の氏神なり古老説に神武天皇東征仕給むとて日向国より官軍をひきいて岡の湊に遷り給ふ時鳳輦を仮に此所に止め給ふ依て其跡に社を建立し天照皇大神より六世に当らせ給ふ故に六の権現と奉祝せしが明治の一新に権現の号を廃し神武神社と改称す。明治五年十一月三日村社に被定。
[境内社(御祭神)]須賀神社(素盞鳴命)、馬飼社(保食神)、牛飼社(大己貴命)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.30訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

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