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なまずで有名な神社さんです。福岡県神社誌では大森神社とありますが、現地社号標は「大森宮」です。
蓑生郷宗社 大森宮御由緒
筑前国宗像郡蓑生郷 上西郷、下西郷、久末、津丸、手光、五ヶ村の産神也。
往時、飯盛山の麓大森に鎮座、大森宮、大守宮、大守六宮と奉称せり。御祭神
(右)伊弉諾命 伊弉冊命 事代主命
(左)水象女命 大山祇命 石長姫命右、主祭神六柱の神の内
右記御祭神は、往時よりの御鎮座、飯盛社、小盛社、西塔田若宮社の御祭神也。左記御祭神は、嘉元二年甲辰三月社職の河津駿河守藤原重房、本国産神、伊豆権現、箱根権現、三島明神の三社の御祭神を合斎せしと伝たり、此の六柱の大神を合斎せしを以て俗に大守六社宮と称号し、郷民の鎮守様と尊崇する皇神是なりと云う。
飯盛、小盛、西塔田若宮三社は宗像神社七拾五社の一也とあり、往時は御神田四拾四町余あり、社運も豊かに年中祭事も盛大なり御奉賛の儀も厳しく斎行の趣宗像社記に詳しく記されたり。
応仁、文明年間に渉りし応仁の乱興り、たまたま往時、河津民部少輔藤原興光武職、社職兼任の責を以て、大内家の命をうけ山城国舟岡山の合戦に参加せし砌り不覚にも吾が身に深手を負ひ困迷傷心の態となり、たまたま戦場と本陣との間に大河あり渡る事を得ず危機に面したり。
其の折、河西の大鯰背に鞍を置き出現いたし、興光速やかに乗移り対岸の本陣に無事帰参。家臣の手厚き看護を蒙り一命を得たりと。
其の後、何者たりかを尋ねども知れず大森六社宮の御祭神の権化なると覚とり鯰魚は使神なりと尊崇せり。以後、蓑生郷の産子、なまず喰する事なしと云う伝へ也。年中祭事記
正月祭 節句祭 祈年祭 彼岸祭 御稚児籠 夏越祭
大祓祭(年二回) 風止籠 宮座祭 新嘗祭 月並祭(月一回)
現地で案内板を読んでいると、たんに上西郷地区にとどまらず、近隣一帯(蓑生郷)の氏神さまであったことがわかります。
筑前河津氏
伊豆の伊東祐清の七代孫と伝えられる「河津貞重(重貞)」が、執権北条貞時から糟屋郡の尾中庄を与えられて下り衆として筑前国に入り、宗像郡の西郷庄(福間町、現福津市)に住み着いた。河津氏は北条氏の姻戚で、配下の一族。後に大内氏に服属。
この神社ができるまえに祀られていた3社を併合し、支配者となった河津氏が自らの祭祀(水象女命、大山祇命、石長姫命)を持ち込んで、6柱の神さまを祀る神社としたことがわかります。北条貞時が亡くなるのは1301年ですので、この地に腰を下ろすことにした河津駿河守重房は、おそらく領地をもらって2代目くらいでしょうか。
船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。
案内板では応仁の乱(1467~1477)の船岡山の合戦と読めますが、福岡県神社誌では永正8年(1511年)の船岡山合戦とあり、年代が約30年ずれています。
大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。
いずれが正解かはわかりかねるのですが、応仁元年(1467年)8月に「大内政弘が船岡山に陣取った」とあり、このあたりの記述から、案内板は最初のほうの船岡山合戦を念頭において各種案内板を記述しているようです。
文明年間 応仁の乱興り 河津民部少輔藤原興光 大内家の命をうけ 山城国 舟岡山の合戦にて 深手を負い 戦場と本陣との間に大河あり その折 河面に大ナマズ背に鞍を置き出現す 興光速やかに乗り移り本陣に無事帰参す
拝殿内に、ナマズから助けられた姿を描いた絵馬が奉納されています。
福岡県神社誌に「興光之れ故郷の産神大森権現殊には我祖の生国伊豆箱根両権現三島大明神の加護なりとし、厚く感謝をなし同九年(注 1512年)春鮧魚使神を合祀せり、此の時より西郷三百町の産土人鮧魚を喰ふ事を禁制す、今に至る迄然るなり」とあります。
船岡山というと信長を祀る神社や大徳寺があるあの辺りですが、あの辺りにこんな大河はなかったような……。むろん、船岡山の合戦に動員されたというだけで、負傷した現地が船岡山周辺というわけでは、ないのかもしれませんが……。
鳥居横にあるナマズの彫像です。彫像の下に由緒書きがあるのですが、OCRで判読できなかったため、そのまま画像のみ掲載します(いずれ再訪時に、OCRで判読しやすい画像を撮影できるよう、再挑戦する予定です)。
境内参道ぞいに、秋篠宮殿下の参拝記念に植樹されたナギノキがあります。
拝殿内に当時(平成13年:2001年)の様子をおさめた写真が飾られていました。
社殿のほうへ足を踏み入れます。御神池に神橋がかかり、その先が二の鳥居です。
私はコイばかりしか見つけることができませんでしたが、御神池には100匹ほどナマズが生息しているとのこと。
少し角度をかえて、社殿前のようすを撮影してみました。
社殿は拝殿、渡り、本殿すべて鉄筋コンクリート造で、拝殿扁額は「大森神社」です。
社殿正面むかって左側の境内社です。お宮と石碑があわせて5つあり、画像左側については、社号などの表記がなく、わかりませんでした。右の画像の大きなお宮には「亀山神社・袒主神社・春日神社・稲荷神社」が祀られています。よくわからないのは「袒主」で、「袒」には一肌脱ぐ(協力する)という意味がありますが、なにに協力されたのか……
社殿正面向かって右側にも境内社があります。左画像の大きいお宮は「荒五郎社・三島神社・諏訪神社・若八幡宮・神武神社・熊野神社・小烏神社・龗神社」で、右画像は「西崎神社」と「天満宮」です。
荒五郎水神といえば、筑後地方をはじめ水利の神・農業の神として信仰されていますが、なんと福間でこの名前をおめにかかるとは……。驚きました。
社殿前の神使のナマズ像も、狛犬さん同様、口を閉じたり開けたり阿吽の姿をしています。なかなか愛らしいナマズさんです。
福岡県神社誌:上巻158頁
[社名(御祭神)]大森神社(伊弉諾命、水象女命、事代主命、伊弉冊命、大山祇命、石名姫命)
[社格]村社
[住所]宗像郡上西郷村大字上西郷字ヤケミドウ
[由緒]伊弉冊命以下三柱の大神は嘉元二甲辰年河津駿河守重房の本国氏神を勧請合祭し六座とす宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む則七十五社の一也而て蓑生郷宗社也小盛に鎮座なりしが嘉元二甲辰三月河津駿河守重房再建し又延元年中足利尊氏改建し神田を寄附す又文明の頃より大内政弘祭典料四町寄附祭祀を興隆す享保の末社殿焼失其後当所に移転社殿新築す明治五年十一月三日村社に被定。又社説に曰く、蓑生郷(上西郷、下西郷、津丸、久末、手光の五箇村を云ふ)の宗社なり。延元年中足利尊氏当郡の諸社に祈願の事有つて宗像大宮司氏俊に命じて当社をも営興し神料四町等寄附。爾来年々祭祀最も厳重也しと後世度々の兵乱に当社も囘禄し、神領は皆没収せられ、神人巫女離散せしかば、おのづから祭事も退転して遂に廃社に及ぶ。たまたま地頭河津掃部助弘業は多年之を患ふる処に当社の内大内政弘の領となる、則弘業を以て其代官職に補はる此時に至り社務職の人を再興して再び祭祀を執行はしめ度旨、弘業頻に愁訴有ければ、文明十一年十一月政弘より神領八町余寄附、弘業をして再興せしめたり。又永正八年洛北船岡山の合戦に於て河津民部少輔興光激戦して創を被る事数箇所也、己に戦場に顚倒し心沈迷して深淵に没するが如し。時に鮧魚有て興光を背に乗せ水上に浮びて我陣営に帰る、興光之れ故郷の産神大森権現殊には我祖の生国伊豆箱根両権現三島大明神の加護なりとし、厚く感謝をなし同九年春鮧魚使神を合祀せり、此の時より西郷三百町の産土人鮧魚を喰ふ事を禁制す、今に至る迄然るなり現今皮膚病の神として崇敬者甚だ多し。
[境内社(御祭神)]春日神社(天児屋根命、保食神)、三島神社(大山祇命、諏訪神、龗神、熊野神、神武神、八幡神)六柱大神は今下西郷手光、津丸、久末の四箇村に氏神として奉祀大神等を本社の摂社として往古より境内に鎮座。荒神社(素盞嗚命)、貴船神社(高龗神、闇龗神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.29訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。