松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市早良区有田2丁目 宝満神社(有田宝満神社)

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.07.28)


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神社が西に向いているのは、もともとの有田村(集落)の方向に社殿が向いているからでしょう。鳥居前のとおりは、大正時代の地図にも記載があるふるい通り(月城通り)です。

大正時代に建てられた鳥居の扁額は「宝満宮」で、平成に奉納された鳥居は「有田宝満神社」となっています。

本殿の背後に蔵があるのかとおもったら、なんと本殿の覆屋が防火性の高い白壁造りです。

有田宝満神社

一、祭神
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

一、由緒
不詳、明治五年十一月二日村社に定められる。社説に曰く、当社は其由緒詳かならざれ共、此地は往昔田部郷に属し殊に小田部の枝村なりしかば同所、宝満宮を分社勧請せりとも伝ふ。

一、境内の祭神
忠魂碑
松尾庄屋の碑
菅原神社
五穀神

一、祭祀と行事
春の大祭 (四月二十九日)
夏の大祭 (七月十九日)
お日待ち (九月二十八日~二十九日)
秋の大祭 (十一月二十三日)
慰霊祭 (三月二十一日) 

2023年1月28日の日録 - 美風庵だより

先日訪問した小田部宝満宮の分社ではないか、と案内板にあります。

境内に、案内板にはないお堂があります。

逆に、案内板にある菅原神社を見落としてしまいました。

お日待ち(義民松尾庄屋の碑)
享保年間(1716-1736)五穀稔らず悪病流行して郷民は窮乏の極に達した。庄屋松尾孫三良は日夜心を砕いて救済策を講じたが効力なく郷民の苦を見るに忍びず、死を決して法度の厳禁されていた減租の嘆願を行った。
藩庁に召喚されている間、郷民は氏神の境内に集まり夜を徹して庄屋の罪の軽いことを祈った。
例のない直訴を受けた城中では「庄屋は打首、組がしら(副庄屋各)は田畑取り上げの上、所払い。百姓は過料」が大半の意見であった。藩主黒田継高公(1703-1775。6代藩主)は、天下のご法度を犯した死罪を覚悟し百姓を守ろうとする名庄屋の気骨に感服し、「無罪放免そして年60俵の年貢米の免除を言い渡す」の一声であった。
その後、庄屋の志を無にするなと9月28日を祭りの日と定め宝満遇の神威ともども子々孫々まで当時の思い出を伝えた。これが250年も超す伝統をもつ有田のお日待ちである。
当日は祭壇を飾り、夕刻には氏子たちが宝満宮に集まり神主が由来をのべてのりとをあげる。一晩中灯明を消さないで庄屋の安否を気づかった当時の郷民の心情を偲んで一夜を明かす。(石碑裏面の松口栄太氏詩文より)

境内には「松尾庄屋の碑」があります。

福岡県神社誌:上巻88頁
[社名(御祭神)]宝満神社(彦火々出見尊、玉依姫命、鸕鶿草葺不合尊)
[社格]村社
[住所]福岡市大字有田字馬場
[由緒]不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。
社説に曰く、当社は其由緒詳かならざれ共、此地は往昔田部郷に属し殊に小田部の枝村なりしかば同所、宝満宮を分社勧請せりとも伝ふ。神社の西方に一反歩余の宮田と云ふ所あり往年本社の祭田なりしと謂ふ。
[境内社(御祭神)]菅原神社(菅原神)明治十五年一月ニ十日字天神屋敷より遷す 古く小田部氏の鎮守と云ふ。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.03訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月3日の日録 - 美風庵だより