松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区中吉田1丁目 綿都美神社


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元からある御神橋を改修してとおりやすいよう段差をもうけています。

拝殿と渡りは、鉄筋コンクリート造、本殿は木造です。

裏の川に出ることが出来、水神さまと祓戸大神の石碑があります。

あとで福岡県神社誌下巻の当該項目を画像で引用しますが、先ほどの水神さまと、社殿正面向かって右側の石祠4社(菅原神社、恵比須神社、貴布祢神社、日箱神社)は、合祀されここに移転したもののようです。明治44年に合併許可とあります。

福岡県神社誌に境内社として記載があるのは、社殿正面向かって右側のお稲荷さんだけです。

しめ縄の巻かれた御神木の足下には、地主神の石碑がめりこんでいます。

OCRでうまく読み込めないためそのまま画像で掲載しますが、明治になり綿都美神社と改称するまでは、龍王宮だったとあります。

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(要約)

嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した。玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。
彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖(=安曇磯良)の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

福岡市博多区住吉3丁目 住吉神社 - 美風庵だより

この「神社めぐり」シリーズにおいて思考の基準となる「玉垂宮神秘書」では、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の3男2女を住吉五神と称し、うち男子3人が住吉三神(表筒男尊が安曇磯良、中筒男尊は神秘書の記述では神武天皇だが実際は崇神天皇のこと、底筒男尊が高良玉垂命)となり、安曇磯良(表筒男尊でもある)と女子2人をもって少童三神(綿津見三神)とします。

じつは訪問時点で福岡県神社誌すらろくに目をとおしていませんでした。

現地であれこれ眺めながら、綿都美神とはだれか?としばらくかんがえます。

江戸時代までは龍王宮だったのですから、王とつく以上、安曇磯良(表筒男尊)やその父 鵜葺草葺不合命ともおもえません。

塩土老翁~豊玉彦~豊玉姫~鵜葺草葺不合命~住吉三神・少童三神という系図をかんがえていくと、おそらくは豊玉彦のことではなかろうかという気がします。

級長津彦・級長津姫(福岡県神社誌では「志那都毘古神、志那都毘賣神」)については、風の神でもあり、また天之忍穂耳と市杵嶋姫の別名ではないかと書いたことがあります。海神豊玉彦と風神夫婦の組み合わせ、そしてこれは彦山が天之忍穂耳を祀り、豊前坊高住神社が豊日別として豊玉彦を祀っている(少なくとも互いの格に不足はない)ことも、おそらく綿都美神は豊玉彦で間違いはないとおもうのですが……。

もう一点重要なのは、後日掲載する沼八幡神社の旧地でもあったという点です。

福岡県神社誌が引用する西国太平記では、さきに八幡宮があり、現在の沼八幡神社に遷座後、浜宮としてこの龍王宮が出来たと読めます。

これは行ってみないと、というわけで、このあと沼八幡神社を訪問してみることにしました。

福岡県神社誌:下巻155頁
[社名(御祭神)]綿都美神社(綿都美神、志那都毘古神、志那都毘賣神、經津主神、武甕槌神、高淤加美神、闇淤加美神、闇禰都波神、多古理媛神、市岐島媛神、多岐都媛神、大山津見神、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、天津彦穗爾々岐命、事代主命、美須波賣神、菅原道真公)
[社格]郷社
[住所]企救郡曽根町大字吉田字川原
[由緒](本文中に画像で引用します)
[境内社(御祭神)]稲荷神社(倉稻魂神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.01.14訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年1月14日の日録 - 美風庵だより