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福岡市博多区住吉3丁目 住吉神社


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【公式】福岡 (博多) の筑前國一之宮 住吉神社 | 福岡市博多区にある筑前國一之宮 住吉神社の公式サイト。古くから地域の方々に「すみよしさん」と親しまれてきた当神社の神前結婚式、各種祈願、季節ごとの祭事などをご紹介します。

福岡市博多区にある「日本三大住吉」の一社です。

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「日本三大住吉」とされる福岡市の住吉神社の権禰宜だった男性が、宮司からパワハラを受け、違法に解雇されたとして、神社に地位確認などを求めた訴訟の判決で、福岡地裁は11日、「解雇は不合理で無効」と認め、神社側に未払い賃金や慰謝料の支払いを命じた。

(略)

判決によると、男性は宮司に腕や頭を殴られたり、丸刈りを強制されたりしたほか、「給料泥棒」などの暴言を受けた。神社は男性の業務に問題があるとして2013年、解職を通知した。

記事収録日:2015年11月11日

この事件を知り「神社めぐり」では取り上げないことにしていたのですが、すでに掲載地は1,000社寺を超え、次の訪問地探しで苦労していることもあって、取り上げることにしました。

しぶしぶであることをさきに御承知おきください。

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私たち九州王朝説を信じる神社マニアにとって、コーランとも聖書ともいえる「高良玉垂宮神秘書」という書籍があります。

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嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した。玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。
彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖(=安曇磯良)の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

記紀神話をはなっから信じるむきには頭痛がするかもしれませんが、ここには、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)が初代住吉大明神であり、(義理・実子含め)5人の子を住吉五神と呼ぶとあります。

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住吉神社 (福岡市) - Wikipedia

祭神は次の5柱。これら5柱をして「住吉五所大神」とも総称される。

主祭神
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
以上の3柱は「住吉三神」と総称される[3]。

配祀神
天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
神功皇后 (じんぐうこうごう)

玉垂宮神秘書の住吉五神と、今回訪問した住吉神社の公式の御祭神(住吉五所大明神)と比べれば、女性2名が入れ替わっていることがわかります(隠す理由はわかりません)。

玉垂宮神秘書のほかの部分で、綿津見三神といえば、鵜葺草葺不合命の実子3人、女2名と安曇磯良(あんとんいそら。玉垂宮神秘書では あずみのいそら ではない)を指すため、残る神武天皇(中筒男)と高良大菩薩(底筒男)は、義理の子もしくは舎弟?であることが、推測できるわけです。

この神武天皇が、本物の「かむやまといわれひこ」であった可能性は限りなく低く、私は、神武詐称・背乗り王朝の祖 崇神天皇のことだと解しています。

この配神が示すのは、鵜葺草葺不合命とその直系3人(安曇磯良、表津少童命、中津少童命)をメインとし、そこに中筒男尊と底筒男尊が加わった、いわば住吉一家(ヤクザっぽいな……)の神社であるということです。 

住吉神社 (福岡市) - Wikipedia

主祭神の住吉三神は、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。
(略)
一方で当社縁起では、住吉神が生まれた阿波岐原を当地に比定する。その説の中で、『日本書紀』において三韓征討以前に神功皇后が依網吾彦男垂見に対して住吉神の神主を命じたとする記事を当社の創建記とし、ここから全ての住吉神社の中で最も早く創建されたとする。 

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現在は、マンションや商店が立ち並び面影もありませんが、むかしはこの池のあたりまで海水がきていたとのこと。

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池のほとりに天津神社があり、イザナギさんをお祀りされています。

速玉男命:玄松子の祭神記

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。

死んだイザナミさんを追って黄泉の国にイザナギさんが行ったことになっていますが、別の伝承では、二人は離縁しています。そのもめごとにかかわったのが速玉男と事解男で、私は、熊野信仰とは、再婚後のイザナミさん達に対する信仰と理解しています。

神秘書を読むかぎり鵜葺草葺不合命の父は彦火火出見です。この彦火火出見は、おそらく山幸彦(饒速日命、猿田彦)のこと。イザナギさんとはまったく縁もゆかりもありません。

ただ、新しい亭主(速玉男)からイザナミさん奪還に失敗したイザナギさんが、この地で心機一転をはかった伝承と、住吉五神(住吉三神+綿津見三神)の権威付けが結びついています。

権威を箔付けするために、このような創作が行われたのでしょうか。

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本殿撮影禁止と看板が至るところにあるため、随身門から本殿を遠景で撮影しました。

過去に山口県下関市の住吉神社も、大阪府の住吉大社も訪問しましたが、あきらかに両社とも、この謎解きになんらかの解が与えられたあとに建てられたもので、境内や伝承が整然としています。

住吉神の荒魂を祀るのが山口県の住吉神社、和魂を祀るのが大阪府の住吉大社ということになっていますが、この荒魂・和魂という概念は、関係ない者を同一視させるために考え出されたある種のトリックです。私は山口の住吉神社は中筒男こと崇神天皇、大阪の住吉大社は底筒男こと玉垂命がメインであると理解しています。

そしてここ、博多区の住吉神社こそ、本家本元、住吉五神とその親 鵜葺草葺不合命を祀る神社であったと考えるのです。

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住吉神社
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命。全国に約2000社ある住吉神社の始源とされ、開運除災・航海安全・船舶守護の神として信仰を集め、和歌の神としても崇め敬われてきました。現在の本殿は、元和9年(1623年)福岡藩初代藩主黒田長政が再建したもので、古来の神社建築様式を現代に伝える「住吉造り」として国の重要文化財に指定されています。また、当社が蔵する銅戈6口、銅矛5口は県の文化財に指定されています。
福岡市 

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住吉神社と文化財
住吉神社は「延喜式」(延長5(927)年に完成)の神名帳に明神大社としてその名が見える式内社で、筑紫国の一の宮、旧官幣小社でありました。祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命です。平安時代には朝廷からの奉献を受けたことが記録に残され、古代から国家鎮護や船舶守護の神として信仰されてきました。また、中世には和歌の神としても敬われ、著名な連歌師である宗祇もここを訪れています。
このような長い歴史をもつ住吉神社には多数の貴重な文化財が残されています。まず、国指定重要文化財である「住吉神社本殿」(図1)は元和9(1623)年に初代福岡藩主黒田長政が再建したもので、この建造物は、住吉造と呼ばれる建築様式です。梁間2間、桁行4間の規模をもち、切妻造妻入りの構造に、檜皮葺きの屋根を特徴としています。
また、社務所別館の南側には昭和13(1938)年に建築された福岡市指定有形文化財「住吉神社能楽殿」(図1・写真)があります。鎌倉時代以降の住吉神社の歴史を知る上で貴重な「住吉神社文書」や鎌倉時代末の歌集である「松花和歌集巻第五」の古文書も同様に市の有形文化財指定を受けています。また、「銅戈」六口や「銅矛」五口(写真2)は福岡県指定有形文化財で、いずれも弥生時代に我が国で製作された青銅製の祭器ですが、出土した状態や場所は不明です。
なお、神社は現在、内陸に位置していますが、中世の終わり頃までは、博多湾がこの一帯まで大きく湾入しており、当時は河口に突き出した場所に立地していました。
2004年9月 福岡市教育委員会

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この住吉神社の境内社でもひときわ参拝者がおおいのは、この白髭稲荷神社・荒熊稲荷神社です。福岡県神社誌と違い、現地の案内板では豊受大神を外宮から勧請したと記載があります。

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数年来ていないうちに、狐穴がすっかりきれいに整備されていました。むかしはもっと、表現はよくないかもしれませんがうじゃうじゃとした感じがあったのですが、どうもむかしほど御神使は棲んでいない感じがします。

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画像手前から、菅原神社、人丸神社、志賀神社、船玉神社です。

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志賀神社の前に「福分小判」というものがあります。

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境内のご案内 | 【公式】福岡 (博多) の筑前國一之宮 住吉神社

志賀神社福分小判
この小判は、志賀大神を氏神とする豊の国(大分県)久住の志賀氏が宝籤に当籤した事を報恩感謝し、ご参拝の皆様にも「福」が授けられる事を願い、住吉神社の摂社である志賀神社に奉納建立したものです。 小判に触れられて、良いご縁をお結び下さい。
昇鯉…恋愛成就、昇龍…金運上昇 

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境内には、三日恵比須神社もあります。

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1949年(昭和24年)1月3日に鎮座したのこと。なんと戦後生まれのえびす様なのです。

十日恵比須神社 - Wikipedia

社伝によれば、香椎宮大宮司家の武内五右衛門(平十郎)は分家して「神屋」と号して博多で商売を営んでいたが、天正19年(1591年)1月3日、香椎宮・筥崎宮を参拝したとき、香椎浜に流れついた恵比須神の神像2体を得た。それを自宅に持ち帰って祀ったところ家運が隆盛。翌年の文禄元年(1592年)1月10日、平十郎が神像を拾い上げた場所に社殿を設けた。

じつは福岡県庁近くに同様の伝承をもつ「十日恵比須神社」があり、えびす様の「拾い神」という点がそっくりです。まさか真似たわけではないでしょうが……。

福岡県神社誌:中巻151頁
[社名(御祭神)]住吉神社(底筒男命、中筒男命、表筒男命、三座。配祀 天照皇大神、息長足姫命)
[社格]官幣小社
[住所]福岡市住吉町大字若久字住吉大明神
[由緒]社説に曰く、当神社は伊弉諾命の予母都国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟にて、住吉大神御出生の地なるが故に、神代より御鎮座あらせられたるものと推察せらる。下りて神功皇后神教を奉じて御征韓の途に上らせ給ふに先立ち依綱吾彦男垂見をして祭祀を行はしめ給ひしは当神社にして、当時既に此地に御鎮座有りたるものなる可く、住吉本社又日本第一住吉宮と旧記に見えたり。皇后御征韓の時大神の和魂は玉体を荒魂は御舟を守護して御神徳を垂れ給ひ、御凱旋の日荒魂は長門に、和魂は摂津に鎮り給ひぬ。かくて当社は住吉本社として歴朝御崇敬極めて篤く、中にも、後一条天皇は一代一度の大神宝使をして奉幣せられ、後花園天皇は当宮一夜の松の奇瑞を御叡感、勅撰松花和歌集を奉らる。其他頼朝を始め武将国主より神領金穀の奉納枚挙に遑あらず。
貞観元年従五位下叙し奉る、延喜の制には名神大社に列せられ、建武、延元、正平及び文明の頃には筑前一の宮たり、境域方一里、神領三千町、神人社僧百十余人に及び、本殿三宇廻六十六間二階造楼門を首め、境内外に数多の摂末社佛堂等を有し壮大を極めたるも、元弘建武嘉吉応仁以降海内乱れ、殊に博多の地は戦争の巷となり、遂に当社も荒廃に帰しぬ。慶長五年黒田長政入国以来、名社の荒廃を歎き、元和九年現在の神殿拝殿を再建し、天明中随身門、玉垣門、玉垣、神楽殿等を再建せり。明治五年十一月三日県社に大正四年十一月十日官幣小社に列せられ、神威日々に発揚し、漸次往時の盛大に復しつつあり。
[特殊祭事]・潮干祭 四月三日 神功皇后御出船の故事を偲び奉る祭典にて、敵国降伏、海上平安の祈願をなす。
・夏越祭 七月三十日、三十一日 御祭神御出現の故事に起因し、古来の六月の大祓にて、当日那珂河畔斎場にて大祓神事。芽の輪潜等あり。心身の清浄災厄消除の祈願をなす。
・相撲会祭 十月十二日、十三日 神功皇后住吉大神の御神勅によりて三韓を征し給ひ、御凱旋の砌報賽祭執行の時大神の宣旨によりて兵士に力競べせしめられたるに始まれり。現今相撲司家吉田追風翁臨場、盛大なる式相撲を行ふ。
・歩射祭 十一月七日 皇紀千三百九十七年聖武天皇の天平九年、新羅我が国に無礼なりしかば、当宮に勅使を遣はし奉幣して告げ給ひしに、新羅ほどなく叛意を翻へし、王子金泰廉等を質として奉り、後我が朝に帰化しけるを以て其の罪を免し給ひきと。夫れより凡百四十年を経て陽成天皇の元慶二年(紀元千五百三十八年)新羅復我が国を窺ひしかば、勅使兵部少輔従五位下兼行、伊勢権介平朝臣李長を遣はし、当宮に奉幣して祈らせ給ひしに、遂に其の寇無くて罷みにきとぞ。干時鳴弦蟇目なんどの行事もありしならん。爾来歩射祭と称する神事を存して、左庁の人等境内に集ひ、未申の方に向ひて歩射を行ふを例とせり。是即世は泰平に属すと雖、武備を忘れず、斯道を鳴吹すると共に国難を除き、海内静寧万民豊楽の祈祷なり。
[摂社(御祭神)]船玉神社(猿田彦命)、志賀神社(底津綿津見命、竹内宿禰、中津綿津見命、火産霊神、表津綿津見命)
[末社(御祭神)]人丸神社(柿本人丸)、菅原神社(菅原神)、稲荷神社(宇賀魂命、火産霊神)、少彦名神社(少彦名命)、天津神社(伊弉諾命)
[境外末社(御祭神)]下照姫神社(下照姫神、味耜高彦根命、衣通姫神)
(2022.03.09訪問)