松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市門司区大積 天疫神社(天疫神社・水天宮)


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福岡県神社誌をみると、現在の北九州市門司区大積地区には、以下の2社あることになっています。

2 無格社 貴布禰神社 門司市大字大積字芝ヶ畑
3006 村社 天疫神社 門司市大字大積字乙女

しかし、現在の地理院地図やゼンリンをながめても神社はここ1か所しか見当たりません。とりあえず訪問してみることにしました。

道路からはいって手前は、なんと水天宮です。

国指定重要無形民俗文化財
(豊前神楽の一つとして)

市指定無形民俗文化財

大積神楽

昭53・3・22指定

毎年十一月三日夜、大積・天疫神社の秋の祭礼に奉納される神楽である。いつ頃から行われていたか明確なことは分からないが、「天保十五年辰九月吉祥旦 奉寄進豊前大積村若者中 田ノ浦鍛冶屋幸右衛門作」と銘を刻んだ五徳の脚がのこされており(かって行われていた湯立神楽に使用されたもの)、江戸時代末かなり盛んに神楽が行われていたようである。ただし江戸時代までこの地方の神楽は、神職によって行われており、この神楽も甲宗八幡神社の神官を中心として組織された神楽座によって行われていたものと考えられる。
したがって現在行われている神楽は、明治時代になって廃絶していたのを氏子が復活したものである。復活にあたって赤幡神楽(築城町)から習得したといわれており、小倉南区の横代神楽、合馬神楽(京都郡の神楽から芸態を習得したといわれている)とは芸態の細部に若干の相違が見られる。
かっては神楽本来の形式である三十三番の演目を持っていたが、現在では「米撒き、折居、御福」の舞神楽、「地割、岬鬼、四方鬼、岩戸神楽」の面神楽七番だけとなっている。

北九州市教育委員会

水天宮の鳥居の横には地元に伝承する御神楽の案内板があり、なにがどうなっているのかとついかんがえてしまいます。境内をぐるりと一周してみて気づいたのですが、全体のつくり的に、おそらくここに天疫神社がもともと存在し、あとから地区内に祀られていたほかのお宮が集まってきたもののようです。

義経
平家伝説
ゆかりの地

水天宮
海御前の碑・かっぱの石像

「壇之浦の戦いで平教経の奥方(海御前)は敵将を切り捨て安徳天皇の後を追い海に身を投げた。その遺体は大積の浜に漂着し、里人が手厚く葬り水天宮として祀ったのがいわれ。海御前は河童の総帥になったと言われ境内には硯石でできた海御前の碑や河童の像がある。

北九州市

「海御前(あまごぜ)」という響きにはどこか聞き覚えがあります。

水天宮 (久留米市) - Wikipedia

社伝によれば、寿永4年(1185年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使局伊勢が千歳川(現 筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間(1190年 - 1199年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前大明神、尼御前神社、尼御前宮などと呼ばれた。

この大積地区の水天宮は、漂着した貴人の亡骸を海御前(あまごぜ)として丁重に祀り、(本家本元にあたる)久留米の水天宮は壇ノ浦から落ち延びた女官が尼さん(尼御前:あまごぜ)となり一族を祀ったことからはじまります。

すでにこの日記でも触れたとおり、平家の落人は各地に落ち延び、それぞれが先祖の祭祀を行っていました。そのなかに水神様の祭祀に隠して平家一門を祀っていた「高西郷水天宮」があり、久留米有馬藩が地元から召し上げるかたちで尼御前宮と再編統合したのが、現在の久留米水天宮です。このときに、スポンサーである有馬家が崇敬していた天之御中主が祭神に加わり、これ以降、天之御中主は妙見様としてだけでなく、水神としても認識されていくようになります。

門司市 編『門司市史』,門司市,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1050964 (参照 2023-01-13)

福岡県神社誌や門司市史の「天疫神社」に関する部分を読んでいても、まったく水天宮については触れられていません。ながい間こっそり祀られていたものに名を付すにあたり、この水天宮という社号は、同じ平家を祀る神社である久留米水天宮から拝借したものでしょう。

大積と河童

寿永4年(1185)、栄華を誇った平家も壇ノ浦の合戦で滅びました。入水した平家の武士たちは平家蟹となり、平家の女官たちは河童に化したという伝説が残されています。
平家の勇将、能登守教経の奥方「海御前」は、豪気な人で幼い安徳帝の最期を見届けたのち入水しました。大積の乙女山の浜辺に流れ着いた遺体は、村人により老松(枯死し今は猿田彦の石塚がある)の下にねんごろに葬られ、人々はこの墓を御前様の碑と呼ぶようになりました。
そして、海御前は、いつの頃からか河童の総帥として河童族を支配するようになりました。大積には河童伝説が残されており、その一つに「河童の証文岩」の話があります。
大積の殿様の馬を乙女川(現在の奥畑川)で洗っていると、河童が現れ、馬を川に引き込もうとしました。これを家来に見つかり捕らえられた河童は、かたわらの石を指して、「この岩が腐るまで領地内ではいたずらはしません」と殿様に許しを乞うたといいます。
証文岩は、ここから約百メートル離れた奥畑川のそばにあります。

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12月11日の日録 - 美風庵だより

2021年12月、白野江地区を中心に神社めぐりをしましたが、このときに「殿様川の河童池跡」なる石碑をみつけました。これとも関連があるのでしょうか?

河童像の反対側には、海御前の墓や石碑、河童の碑が並んでいます。見るかぎり海御前の墓は砂岩で、入口の案内板にある硯石で作られた石碑というのは、中央の「海御前様」と彫られたもののことでしょう。

水天宮のお宮です。瓦に三階菱紋があり、じつは小笠原藩公認だったのか?ともかんがえたりしますが、さだかではありません。

敷地は同じで相互に行き来できるのですが、あらためて天疫神社側の鳥居と正面を撮影します。

天疫神社の社殿正面です。拝殿には立派な彫り物と扁額があります。

横長の拝殿に長い渡り、一段高い本殿と、小笠原藩下でよくみる配置です。

この天疫神社について、福岡県神社誌では境内社の記載がありません。

現地には、社殿正面向かって右脇に2社、境内社があります。画像左手は権現神社とあり、この辺りで権現なら彦山権現だろうとはおもうのですが、確証はありません。福岡県神社誌に記載はないものの門司市史には「末社 大積社」という文言がみえます。もともとこの地を支配した大積氏の霊を祀るとあるため、もしかするとこの権現が大積氏を指すのかもしれません。

もう一方のカラフルな貴布禰神社は、こちらも推測ですが、門司市大字大積字芝ヶ畑にあるとされる無格社の貴布禰神社が移転してきた姿ではないかとおもいます。

参集殿に有刺鉄線?鉄条網?とさいしょ勘違いして近づくと、電飾の飾りつけでした。夜になったら光るのでしょうか?さすがに夜まで待機するわけにはいきませんが、正月の初詣のかたに目で楽しんでもらう工夫かもしれません。

福岡県神社誌:上巻148頁
[社名(御祭神)]天疫神社(奇稲田比売命、武速須佐之男命、鎮魂八柱神、八衢毘古神、八衢比売神、久奈止神)
[社格]村社
[住所]門司市大字大積字乙女
[由緒](省略)
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.01.11訪問)

福岡県神社誌:下巻450頁
[社名(御祭神)]貴布禰神社(高淤加美神、闇淤加美神、彌都波能売神)
[社格]無格社
[住所]門司市大字大積字芝ヶ畑
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.01.11訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年1月12日の日録 - 美風庵だより