松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

12月11日の日録

門司には以前から目をつけていたのですが、なかなか現地を訪問する機会がありませんでした。

12月5日の日録 - 美風庵だより

5日、所用で小倉に出たついでに、門司駅周辺で神社めぐりをしました。「神社めぐり」シリーズ用に文章を作成していると、いろいろと面白そうな場所が目につきます。

思い切って今週は、門司の一部、白野江から田野浦にかけて歩いてみることにしました。

歩いたり自転車を使ったりするのには、理由があります。車だと流れにのって走らないといけませんから、どうしてもいろいろなものを見落としがちになります。徒歩や自転車は、立ち止まるのがかんたんです。じっくり眺めることができます。

f:id:bifum:20211211204701p:plain

GPSのログで、約12km歩きました。途中のトンネルはGPSの通信ができないため、出入り口をむすぶ直線になってしましたが、仕方がありません。

f:id:bifum:20211211100011j:plain

知人事務所の駐車場を借りて車を停め、JR西小倉駅から門司港駅まで、列車で移動します。

座った座席の窓枠には、彫りこまれた落書きがありました。「0995」の市外局番から鹿児島で使われていたのだろうとわかります。それにしても「ともこだいすきだ(ハート)だいすけ」と彫りこんだ男もたぶんそれなりの齢となっているでしょうが、いまこれをみたら、どう思うのでしょうね……。

f:id:bifum:20211211105206j:plain
f:id:bifum:20211211105909j:plain

門司港駅 - Wikipedia

門司港駅に来るのはほんとうに久しぶりです。むかしはここから連絡船で下関に向かっていたそうですが、すでに子供のころには関門トンネルがあり、話でしか聞いたことはありません。むしろ、門司駅から先は貨物用の支線かなにかだろうと、高校生くらいになるまで思っていました。

f:id:bifum:20211211112442j:plain

西鉄バスを「白野江2丁目」バス停で下車します。

f:id:bifum:20211211113646j:plain

まず「稲穂神社」というお宮さんを訪問したあと、県道に戻ろうとすると「殿様川の河童池跡」という石碑をみつけました。横に案内板があるのですが、アクリル板が黄ばみなかの文字が退色しており、読めません。郷土資料をさがせばこの地に伝わる伝承がわかるかと思います。いずれ調べてみることにします。

f:id:bifum:20211211114217j:plain

市立白野江小学校の横を通りがかると、サトウキビが植えられています。サトウキビは日照がよく、水が豊富でないと育ちません。道の反対側は堤防で、たしかに日照に問題はなさそうです。

f:id:bifum:20211211114556j:plain
f:id:bifum:20211211114639j:plain

さらに歩くと、海浜公園に出ました。ここから堤防の外に出て、海を眺めようとしたところ、なにかの気配を感じます。右を振り向くと、中学生?高校生?の男女がひきつった顔でこちらをみていました(右の画像に、黒っぽい服の女のほうが少しだけ写っています)。二人きりの世界を邪魔してしまい、気まずいのでそのまま退出し、海が見える場所はいくらでもある、と思い直して、白野江バス停近くにある御祖神社に向かいます。

f:id:bifum:20211211115421j:plain
f:id:bifum:20211211120034j:plain

白野江バス停に到着しました。ここは折り返し場兼用になっています。日中は1時間に2本、ここから門司港駅方面のバスが出ています。次の御租神社の鳥居も、みえてきました。

御祖神社境内の梅が、ちらほらと咲きはじめていました。暖冬ですね……。

2011年までは、白野江地区から先、次に目指す青浜集落まで1日5本、バスが走っていました。

f:id:bifum:20211211222503j:plain

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

ここで、北九州市門司区の大正時代の地図に、現在の地形図を重ねてみます。

青浜集落側は、ほとんど海岸線に変更はないのですが、田野浦や下関側は、埋め立てでまったく海岸線が別物になっていることがわかります。埋め立てのための土砂採取や、採石場の開発がすすみ、等高線を重ねるとどれだけ山側を削ったかがわかり、驚くほかありません。ちなみに、地元の埋め立てが終わったいま、ここの土砂ははるばる辺野古沖の埋め立てにも運ばれているそうです。

f:id:bifum:20211211120744j:plain

次の青浜集落にある皇産霊神社まで、2km近くあるなぁ……。そんなことを考えながら御租神社の石段をおりていくと、海と堤防、そして門司港駅にむかう西鉄バスがみえました。

f:id:bifum:20211211122443j:plain

海釣りを楽しむ人たちが居ました。この向こうにみえる陸地はどこだろうとしばらく考えてみましたがわからず、googleマップを眺めると、どうやら宇部や小野田あたりのようです。

f:id:bifum:20211211123832j:plain

皇産霊神社|神社の由来(HOME)

インターネットでときどき名前はみていたものの、どういうものか皆目見当もつかなかった皇産霊神社までたどり着きました。古来からある神社ではなさそうだし、どっかの宗教だったら、それっぽい配神になりそうだし……。

現地を訪問して驚きました。七福神に河童に磐座にと御利益てんこ盛りです。しかも天御柱だの太陽拝所だのまであって、ないのは皇居遥拝所くらいでしょうか。

やはり宗教か?と思いつつ、光陽門(という正門)の奉納者名をみて、気づきました。

地元で有名な結婚式場・葬祭場チェーンの創業者名がでかでかと彫ってあります。

株式会社サンレー | トップページ

産霊&SUNRAY(陽光)で「サンレー」、サンレー紫雲閣ってそういう意味なのね……。結婚式場の経営者だから縁結びの神様か……。なるほど……。

f:id:bifum:20211211231038p:plain

神社を出て、さらに北に向かいます。冒頭の地理院地図でも鳥居マークを強調したとおり、この皇産霊神社のほかに、地理院地図にはもう1社記載があるのです。ただ、その神社はgoogleマップにもゼンリン「いつもnavi」にも存在しません。

f:id:bifum:20211211125600j:plain
f:id:bifum:20211211125747j:plain

地理院地図とGPSを確認しながら歩いていくと、未舗装のせまい山道になりました。石垣から鳥居がみえてきます。

f:id:bifum:20211211125807j:plain

鳥居と祠の台座だけが残された廃神社でした。

いちおう地理院地図では、山を越えて反対側の集落まで歩けることになっています。

引き返せば、かなり遠回りになります。ここは行かざるをえまい……。

f:id:bifum:20211211130325j:plain
f:id:bifum:20211211130307j:plain

廃神社から少し歩いたところに、防空壕?の穴がありました。

f:id:bifum:20211211130451j:plain
f:id:bifum:20211211131026j:plain

その先も、石垣があるから昔は道だったことがわかるものの、倒竹だらけでろくに進めない道を歩きます。石の標識があり「浅野所有地」とあります。どうやらこの一帯は、浅野セメントの社有地だったようです。

この標石のあたりから、いよいよ道はわかりにくくなります。

f:id:bifum:20211211131626j:plain

倒竹と枯木が何重にも横たわる道をなんとか乗り越え、峠のてっぺんに出ました。

これなら遠回りしても、よかったかもしれない。まだまだこんなのが続くのか?

f:id:bifum:20211211131953j:plain

ところが山を越えると、急に歩きやすくなります。どうしてこうも整備状況が違うのかとよく見渡すと、林業関係者が使っているとおぼしき脇道が何本かあります。こちらは林業関係者がつかう現役の道のようなのです。

f:id:bifum:20211211134509j:plain
f:id:bifum:20211211134535j:plain

現在は白野江4丁目となっていますが、ふるい地図では「道瀬」と集落名がある場所に出ました。日露戦役記念碑があります。この地からも、兵隊さんにとられた人々が居たのでしょう。まずは手をあわせます。

f:id:bifum:20211211135642j:plain
f:id:bifum:20211211140817j:plain

太刀浦トンネルはおおよそ800mのトンネルですが、排ガスを存分に味わえるトンネル体験は、可能なかぎりしたくないものです。といってもしかたがありません。少しでも近道せねば、暗くなってしまいます。

f:id:bifum:20211211141428j:plain
f:id:bifum:20211211141411j:plain

太刀浦の貴船神社に到着しました。隣は、2011年に廃止になった「太刀浦」バス停です。現在は、坂を下りた麓の「太刀浦ふ頭入口」が終点です。

f:id:bifum:20211211143050j:plain
f:id:bifum:20211211143122j:plain

現在の起終点である「太刀浦ふ頭入口」も、わずか1日3本だったりします。いずれ廃止でしょうね……。

f:id:bifum:20211211144110j:plain
f:id:bifum:20211211144045j:plain

次の春日神社に向かっていると、どうやらこの地に小倉藩の番所があったことを示す案内板がありました。

f:id:bifum:20211212132521j:plain

ここから海って見えるんだっけ?と上組などの倉庫群を眺めて疑問に感じたのですが、埋め立てる前の大正時代の地図をみれば、すぐ目の前が海だったことがわかります。たしかにこれなら、見張り台になりそうです。

f:id:bifum:20211211144330j:plain

春日神社の鳥居をくぐると、真新しいえびす様がありました。さらに先に石段があり、その先になにか案内板があります。はて?

f:id:bifum:20211211144553j:plain
f:id:bifum:20211211144529j:plain

「遊女の墓」とあります。おそらくこの石段を登ったさきに、あったのでしょうか。しかも22体……。いまは、お寺の墓地に移設されているようです。

f:id:bifum:20211211145609j:plain

途中、淡島神社を訪問します。

淡嶋神社 - Wikipedia

淡島神は婦人病にかかったため淡島に流されたという伝承から、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性のあらゆる下の病を快癒してくれる神社とされている。かつては祈願のため男根形や自身の髪の毛などが奉納されていたが、現在はそれらに代わって自身の穿いていた下着を奉納する女性が多い。

淡島神社は性病の神様としても信仰がありました。遊女の墓に淡島神社、ここには花街でもあったのか?

門司の歴史 - Wikipedia

また、近世中期以降に北海道・大坂間で北前船航路が開設されると、寄港地である下関が繁栄し、船の修理を行っていた門司の田野浦も発展した田野浦には、1750年頃の宝暦年間に遊里ができたといわれる。1835年(天保6年)には埋立地に新港が築かれた。もっとも、下関と比べ、田野浦は風待ち、汐待ちの補助的な役割にすぎなかった。

大里~下関というメイン航路だけでなく、田野浦も北前船の集積所として使われていたのは、なにかの本で読んだ記憶があります。ただ、なにせそのころは実際の田野浦に足を運んだことがありませんでした。自分が想像していたよりも、はるかに繁栄していた場所だったのかもしれません。

では、遊女の墓はどこに行ったのでしょうか?現地の案内板を参考に、真楽寺手前の駐車場を目指します。

f:id:bifum:20211211150004j:plain
f:id:bifum:20211211145950j:plain

案内板のとおり現地を訪問すると、今度は「溺死海会塔」がありました。田野浦沖で肥前藩の船11艘が遭難し、50人を超える溺死者を弔うため、佐賀藩主が建立したものとのこと。むかしの船はいまのように鋼鉄製でもエンジン付きでもありませんから、時化に弱かったのは間違いなく、こんな痛ましい事故があったのですね。

正面左手に、セメントでできた新しい壇があり、これがおそらく遊女の墓でしょう。

溺死者の慰霊塔と遊女の墓に、手をあわせます。

f:id:bifum:20211211150046j:plain

来た道を戻ると、本日最後の予定地「薗辺社」がありました。

f:id:bifum:20211211151252j:plain
f:id:bifum:20211211151604j:plain

田野浦郵便局まで来ると、隣の西鉄バス営業所がみえてきました。県道側に出て、ここから小倉に戻ることにしました。門司港駅からJRでもよかったのですが、眠いし、動きたくありません(笑)このまま魚町バス停まで、バスで向かいます。

f:id:bifum:20211211163845j:plain

カルビ焼肉定食|メニュー|松屋

車をとりに戻る前、小倉駅前の松屋で「カルビ焼肉定食」を昼・夕兼用でいただきました。味噌ダレで焼いた豚カルビは、こってり味でたまに食べたくなります。

甘木に帰着したのが19時少し前でした。

あと何回かにわけて、門司区内の神社めぐりのつづきをしたいと思います。