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旧「美風庵だより」です。

宗像市東郷1丁目 摩利支神社


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摩利支神社ほーむぺーじ、楯崎神社ホームページ 地鎮祭 家祓 神葬祭(葬儀)のmarishijinjya 宗像市 東郷 摩利支神社の歴史 - marishi-jinja ページ!

一の鳥居の横に、摩利支大神という幟旗がみえます。

二の鳥居前には正月の門松が奉納されています。

摩利支天 - Wikipedia

摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊。梵天の子、または日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。 

摩利支とくれば、仏教の摩利支天をすぐ連想しますが、ここは神社ですから、神様の御神号です。摩利支大神は、天之御中主のこととされます。

拝殿内も、まったくお寺の雰囲気はありません。

摩利支神社御由緒

(御祭神)
天之御中主大神(摩利支明神)

(御神徳)
勝運、商売繁昌、家内安全、学問成就

(御祭儀)
春季大祭 五月八日
例大祭 十月八日(神幸祭)九日

(御由緒)
当社の御由緒は、古く縁起によりますと、御創建は朱鳥五年(約一千四百年前)時の宗像大領秋恵氏が郡の中央の地東江郷(現在の東郷)に天地創造の神「天之御中主大神」を奉斎し後に勝運、勇武の神(摩利支明神)現「摩利支神社」と称するようになったのが始まりとされております。

沿革には代々郡中の人々は勿論、宗像大宮司家や黒田家の崇敬厚く御供田等の寄進も多かったが、元禄十三年の大洪水により、社殿と共に一切の施設も悉く流出し、その後、領主黒田家第四代の左衛門佐黒田光之朝臣が、時の郡奉行、大森善右衛門に命じ、当社を新たに榎圃(現在地「えのきはた」)に新築し爾来、寛延元年。宝暦八年。天明二年。寛政三年。文政二年とそれぞれ、時の郡奉行の司により再建又は修復が行われたと記されております。

その後、明治二十二年頃より郡内外の氏子、崇敬者の浄財により境内の整備拡張が行われ、同三十五年地元の篤志家川島田造氏の御寄進により社殿が造営されました(現在の神輿収納庫及び参集殿)

以来八十年余りの歳月を経て社殿の老朽化も著しく、祭儀にも支障を来たすようになりました為に社殿の改築を計画、昭和五十三年に摩利支神社復興奉賛会を結成して改築事業を興し幸いに氏子崇敬者の皆様方の御献資によりまして、無事に現在の社殿が完成致しました。

昭和五十四年十月二日 御遷座祭を斎行、

昭和五十五年五月三日 竣功奉祝祭を斎行、

現在に到っております。

現地案内板と後述する福岡県神社誌の記載を読み比べると気づきますが、もともとは葛城修験にあやかって宗像家が勧請した摩利支天のお宮であり、明治3年に葛城神社という神社になり、のちに現在の摩利支神社と改称したものです。もし廃仏毀釈・神仏分離がなければ、おそらくそのまま摩利支天のお宮だったことでしょう。

摩利支天はもともと女神のはずですが、本殿の千木は男を示しています。

福岡県神社誌では境内社は1社ですが、現地には3社あります。

画像左から宇賀之御魂命を祀る富士白玉神社、恵比須神社、保食神を祀る豊山神社とあります。

福岡県神社誌:上巻165頁
[社名(御祭神)]摩利支神社(天之御中主神)
[社格]村社
[住所]宗像郡東郷町大字東郷字土井ノ内
[由緒]往昔宗像大宮司代々崇敬の社故に当郡中央の地に鎮座す中世より修験葛城神社に奉仕せしより摩利支天と称す当宗像郡内各村より営繕祭典の費を課出せり明治三年より又葛城神社と改称す。明治二十八年三月二十八日社号を摩利支神社と訂正許可、大正十四年十月九日村社に列せらる。
[境内社(御祭神)]豊山神社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.12.14訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2022年12月14日の日録 - 美風庵だより