松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県佐賀市川原町 佐賀県護国神社


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護国神社 - さがの歴史・文化お宝帳

戊辰戦争で戦死した佐賀藩兵78柱を祀るため、鍋島直正の意を受けた、その子直大が1870年(明治3年)に建立した神社です。その後、たびたびの戦役事変による戦病没者の霊を順次合祀して、今日では3万5千5百余柱の多きに達しています。毎年春秋の2回、全県の遺族を招き大祭が行われています。
この神社の太鼓橋のかかっているところは、昔は石井樋からの船下りの終着場としてにぎわったところで、現在は夏休み中、水遊び場として子ども達に開放され、市民に親しまれています。

じつに立派なお宮さんなのですが、社務所と社殿のあいだがずいぶんと空いています。

招魂社と佐賀縣護國神社
しょうこんしゃとさがけんごこくじんじゃ/佐賀市川原町
Shokonsha and Saga Prefecture Gokoku Shrine
佐賀藩は戊辰戦争に政府軍として参加し藩士78人が戦死しました。その慰霊のため、明治3年(1870)、知藩事(11代藩主)鍋島直大公により、この地に「招魂社(招魂場)」が建立されました。これは全国でも東京・京都・秋田に並ぶ官祭招魂社でした。手前の碑文は激戦地の秋田で戦死した19名の名前や戦況、招魂社建立の由来が刻まれたものです(裏面参照)。左手奥には当時献燈された石燈籠も残されています。佐賀縣護國神社と改称されたのは昭和27年のことで、戊辰戦争のほか、佐賀の乱(佐賀戦争)や日清・日露戦争以降の戦争による戦没者35,566柱が合祀されて、現在に至ります。

碑文
明治戊辰之役佐賀藩士死王事于秋田口者十有九名矣、村山又兵衛・石井虎三郎・原喜惣太・野田弘平・石井辰吉郎・戸田基一郎・北原養一郎・執行善吉郎・西村藤一郎・鶴鉄之進・副島啓助・西久保平九郎・多々良鉄之助・川原泰三・荒木文八郎・向井喜助・久保幸之助・内田雄八・北村啓助此役也、奥羽鎮撫総督九條道孝公被擁在仙台、我藩兵士三百有余名奉命発江戸舟路径赴之、護総督入盛岡、盛岡有異心入秋田、秋田応命然而奥羽諸藩已連合抗王師矣、我兵深陥於賊中腹背受敵進探虎口横挑狼軍撃惰□遑曷得避鋭諸路進攻連戦数月、南部兵逡巡請降而荘内亦潰、以千里之懸軍卒克蹙賊之大兵及旋之日、顧問我兵少十有九名耳、非決心致命視死如帰何得如此哉、生為敵愾之士死為建勲之臣、抑亦何憾為然当其衝矢石冐白刃合而進人、人自奮散而戦其心如一我一隊猶一身也、其能分戰而死於各地数士之勇謂之一隊之正気可也、一隊之正気謂之我一藩之正気亦可也、凱旋浚藩知事正四位鍋島直大公策勲行賞既禄数士之浚又建招魂社、春秋祭祠焉、同隊之士欲不朽其名以鍋島孫六郎為其長就図之卒建石其側銘之曰
十有九名 秉心維壹 不畏強禦 慷慨激切 凛如厳霜
皦如烈日 祠之祭之 永表忠節
明治三年十一月 励斎相良頼善撰并書

どの石碑の碑文なのか境内をさがすと、なんのことはないこの案内板の手前にある石碑の碑文でした。

この太鼓橋が、もともと招魂社だった時代からあるもので、現在はしめ縄が張られており渡ることができません。社務所と社殿のあいだのおおきな空き地は、招魂社時代のもともとの社殿があった場所だと、推測できます。

(2022.12.08訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2022年12月8日の日録 - 美風庵だより