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【下書きプレビュー】 福岡市西区橋本2丁目 八幡宮(橋本八幡宮) - 美風庵だより
昨日書いた橋本八幡宮の境内社としても記載されているのですが、福岡県神社誌では別項にも掲載されているため、敢えて分けることにしました。
筑前国続風土記附録①
〔巻之四十 早良郡 下〕 (出典)
橋本村
八幡宮
神殿方一間半・拝殿二間三間半
祭礼九月十一日・奉祀西光寺村の南松林の中にあり。祭る所三座、里老の説に、此社ハ文明十四年②柴田内蔵助重信といふ者勧請せりとそ。然とも本編(四四四)紅葉原八幡宮の所には、鎮座の年歴詳ならさるよし見ゆ。寛文六年③紅葉松原に遷座し給ひ、其跡に今の社を重建せり。拝殿の額ハ天明年中④此村の農民柴田三郎七と言者、紅葉八幡宮の額字を写して掲けり。社内に阿弥陀の石仏あり。
・稲荷社 ヲンチヤヤアト
・天神森 マワグマ
・田神二祀 ヤブサツシ
・天満宮 ハハノマエ稲荷もあり。
・薬師堂 サイシウイン寺跡也。
・観音堂 ダイトウジ深江庵 テラヤシキ 禅宗済家仏堂二間三間
甫蛇山といふ。姪浜村円福寺に属せり。境内に石仏地蔵あり。・村中に馬場の前⑤といふ所あり。光之公の誕生し給ふ地なり。
・此村にて年々熟瓜を産す。他の産に勝れり。[註]
①(イ)全五〇巻(一七八四年・天明四年)藩命により加藤三大夫一純が六年間、筑前国を踏査し、四〇巻を藩に献上した。(ロ)残り「土産考」「河水記」は鷹取周成追加(ハ)一七九九年(寛政十一年)完成した。
②(一四八二年)
③(一六六六年)
④(一七八一~一七八九年の間)
⑤「馬場の前」(字図番号(37)参照)地番九三七~九五〇番地現橋本一丁目に在る。)
●「黒田続家譜-巻之一」によれば『寛永五年(一六二八年)五月十六日、忠之(当時二十七歳)の長子光之、早良郡橋本邑に生れ給う、戊辰の年なり、幼名萬土。御母ハ新見氏(本姓坪坂氏、母方ノ姓を用て新見と称す。)後に忠之の夫人と成給う。』平成九年十月吉日 (西暦一九九七年)
橋本八幡宮氏子一同
江戸時代の文献の一部が抜粋され、現地案内板となっています。
この須賀神社の隣にお稲荷さんがあります。
黒田五十二萬石三代当主 黒田光之公はここ橋本で誕生され、その胞衣(胎盤)が稲荷神社の中の石下に納められているので「石の上にあがらないように」と伝えられています。
注目すべきはこの看板です。
前掲の現地案内板だと、3代藩主光之公の生まれた場所は、まったく違います。わざわざ胎盤だけ持ってきてどこかに埋めるでしょうか。
大正時代の地図を確認すると、たしかに鳥居マークが別の場所にもあります。この須賀神社とお稲荷さんはどこかから移転してきたのでしょうか?
と、かんがえていたら、いつも参考にさせていただいている「お寺めぐりの友」に「筑前國続風土記拾遺」が引用されていました。
『筑前國続風土記拾遺』巻之43 早良郡 上 橋本村の項
八幡宮
村南松林の中に在。所祭應神天皇 神功皇后 玉依姫命ないり。 里老相傅ふるは、文明14年(1482)5月柴田内蔵助重信といふ者此社を建立す。 (本編紅葉宮條下には鎮座の時代詳ならすと有。) 寛永5年江龍公(注:光之公のこと)此村にて誕生し給ふ。(公の産室の址ハ社の西隣にあり。上田三畝永年土貢を除けらる。 里人今傍に稲荷の小祠を建、さて柴田か宅址に在。) 寛永19年(1642)高樹公(注:2代藩主忠之公のこと)本社再興し、 側に護摩堂を立て始て真言宗の僧を置る。 是社僧の始なり。 寛文6年(1666)江龍公の命もて紅葉松原に社祠を新修し?座し給ふ。 是によりて里民其遺址に今の社を建立して遥拝所と号す。 社内に松川原大明神(印同殿此社むかしハ河東にありしを後年こヽに移す。)有。
この「拾遺」は、後年「筑前國続風土記」の補足編として編集されたもので、そちらによれば、神社の西隣に産室がもうけられ、村の北側と南側で大移動というわけではなかったことがわかります。
推測するに、産室があった屋敷と、育った母親の実家は別だったということなのでしょう。
「拾遺」でいう永年年貢を納めなくてもよかった田んぼの跡地が、この場所のようです。
真ん中に拝殿があり、3つの祠が取り囲んでいます。この配置も珍しいのですが、ひとつだけは「橋本天神」と台座に社号が彫られています。おそらく、拝殿の真裏がお稲荷さんで、左右は「続風土記」の天満宮や田神なのかもしれません。
福岡県神社誌:下巻418頁
[社名(御祭神)]須賀神社(素盞嗚命)
[社格]無格社
[住所]早良郡壱岐村大字橋本
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.11.17訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。