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旧「美風庵だより」です。

福岡市博多区板付5丁目 八幡神社(板付八幡神社)


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社殿は鉄筋コンクリート造です。

正面とはべつに、道沿いに「地禄天神」の鳥居があります。

社殿正面向かって右側にある石祠が、明治に合祀された地禄天神のものでしょうか。

板付八幡神社の由来

御祭神
應神天皇
玉依姫命
神功皇后

当社の御祭神は、應神天皇をはじめ玉依姫命・神功皇后を御祀りしております。
主祭神の應神天皇は、昔より八幡神として全国に広く崇敬を集めており、国家鎮護、武運長久など多くの御神徳を持っております。
当社は旧那珂町板付村の護り神として、享保五年十一月、この地に創建されました。
以来、氏神様として親しまれ、氏子崇敬者多くの方の崇敬厚く、長い歴史を有する古社であります。

現地案内板では、1720年(享保5年)の創建とされています。

ただ、そうなってくると福岡県神社誌の記載とは、だいぶ話がちがいます。

福岡県神社誌の「由緒」は下記をお読みいただくとして、まとめると、こういう話です。

  1. 大阪府羽曳野市の誉田八幡宮の神官の一族である誉田和泉守が大内義隆の配下となりこの板付の地にやってきた。
  2. 1601年(慶長6年)、黒田長政公に誉田家が取り立てられる。
  3. 藩主が狩りに出るさいの宿泊所となり、1665年(寛文5年)に誉田家の別荘改築のさい、八幡宮が祀られることとなった。
  4. 明治になり藩主の別荘は移転したが、そのまま地元の氏神として八幡宮は残った。

ということになります。

つまり、現地案内板の1720年(享保5年)よりも前から、この地に存在しているはずなのです。こういう案内板を建てるさい、教育委員会の学芸員なり郷土史家なりに確認はとるはずですが……。謎です。

誉田八幡宮 - Wikipedia

社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している
三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸時代には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。

大内義隆の配下にはいった板付の誉田家だけでなく、このwikipediaの書きぶりをみると、だいぶ四散しているようです。調べてみるとおもしろいかもしれません。 

福岡県神社誌:中巻51頁
[社名(御祭神)]八幡神社(応神天皇、神功皇后、玉依姫命、埴安神)
[社格]村社
[住所]筑紫郡那珂町大字板付字徳永
[由緒]誉田和泉守と云もの河内国誉田八幡社の祠官たりしが、大内左京太夫義隆の旗下となり当国板付村に居住す慶長六年黒田長政の巡国該家へ宿泊あり誉田和泉守の後胤なりと知り臣下に召抱へ扶助米を興ふ其の後出獵の節休伯所別荘となりしに黒田継高代寛文五年六月六日該家の損したるを新営其庭内の八幡神祠を新築あり明治三年戌四月十一日右別荘を解除け同郡三宅村へ移されたり八幡神社は其儘にす後は村民の産土神としたりとそ。
明治五年十一月三日村社に定めらる。
祭神埴安神は大字板付字田端無格社地禄神社として応神天皇は大字板付字草原無格社八幡神社として祭祀ありしを明治四十四年七月三日合併許可を得て合祀す同時に合霊す。
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.11.15訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2022年11月15日の日録 - 美風庵だより