アノミーの話(後)
この文章の後編です。
結果、先に書いたとおりのアノミーが現出し、現在に至ります。
とうぜん、国家が民衆の新たな宗教観として構築していた国家神道(神社本庁教)をベースにかんがえるひともいるでしょうし、それ以前の神仏習合も含めた宗教観を大事にするひと、無信仰層、宗教嫌悪層、ありとあらゆるものが入り乱れます。
こうなった原因の一つは、国家神道の建てつけにも一因があります。
ほんらい近代国家における信仰とは、信じたい者が神を信じるものであり、他人が共生するものではありません。これが前近代との違いです。学校で「信教の自由」として習います。
しかし、ほかの日記でも書いたとおり国家神道は「皇祖神は最高神であり日本人の総氏神である」という国家による強制があって成り立つものでした。戦前、皇居遥拝をキリスト者にも強制していたくらいですから、強制されなくなれば不満が爆発し、反発するのはとうぜん想定できます。
明治維新で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのは、それまで仏教勢に頭があがらなかった神社関係者と復古神道の活動家が扇動した側面だけでなく、宗門改をはじめとする宗教政策への不満があったというのは、複数のテキストで指摘されています。これと同じことが起きたわけです。
信仰がない者に強制しても、宗教側の経営基盤が安定すること以外、いいことはありません。
佐賀地方裁判所 2002年4月12日 判決
事件名: 地位確認等請求事件
原告/被告: 自治会費に含めて一括徴収されていた神社関係費の支払いを拒んだ結果、自治会を除名された住民(夫婦)が原告。除名した自治会とその自治会長が被告。
勝敗:
裁判経過
第一審: 佐賀地方裁判所 民事部 2002年(平成14年)4月12日 判決(確定)(事件番号: 平成11年(ワ)第392号)(判例時報 第1789号113頁
第二審:
第三審:
佐賀県鳥栖市に住んでいる夫婦は、自治会費に含まれている神社関係費の支払いを拒んだ結果、自治会から除名された。夫婦は、自治会と自治会長を相手に、自治会員としての地位確認と慰謝料などの支払いを求める訴訟を起こした。佐賀地方裁判所は、2002年(平成14年)4月12日の判決で、「特定宗教関係費の一括徴収は信教の自由を侵害し、憲法の趣旨に反し違法」として、原告の自治会員としての地位を認めた。
神道指令で国家神道はやめたはずなのに神社本庁教の影響か、なぜかいまだにオツムが戦前のかたがおられます。いまから20年以上まえの判決ですが、この判決が出た時点ですでに、神道指令から50年近く経っています。現在もまだ国家神道(神社本庁教)が日本人にかけた呪いに縛られているかたが多数おられます。
この事件、月500円のうち1割が神社関係の支出で、その1割を差っ引いて区費を納めたいと言ったらトラブルになったものです。
じつは私の住んでいる町内会でもこの判決文を配り「裁判になったら負けるので新宗教や浄土真宗の信者・関係者から拒絶の意思表示があればその分は徴収してくるな」と私がやったら「日本人なら払ってあたりまえ!そんなもんいちいち持ち出すな気持ち悪い!」とせせら笑う馬鹿(現在80代の元町内会長)がいて喧嘩となり、責任とれないので私のほうが町内会の運営から手をひいたことがあります。
弁護士相談とかいろいろ足をはこんでいましたが、1年後に支払い拒絶していたかたが離脱されて隣接の町内会に移る(飛び地化)ことになり、沙汰やみになりました。
こういう裁判が起きることじたい、近代国家とはなにか理解できていないかたが多数おられる証左ですが、そもそも近代と前近代を同時並行で輸入し、並列で教え込んでしまった結果ともいえ、裁判で負けた町内会側もいま80代の馬鹿も、大きく見れば被害者だったのかもしれません。
私自身は宗教関係者ではありません。このカオスの行く末がどうなろうとほんらいは他人ごとです。とはいえ、日本人が今後どうなっていくかをかんがえれば、重大ごとでもあります。
「なにを信じたらよいかわからない時代」
「民衆が信仰から棄てられた時代」
その行く末がどうなるか、カネがつづくかぎり生きてはいるでしょうから、これからもしっかりウォッチしていかなければなりません。
宗教観が大崩壊した「アノミー」の世界そのものに居るいま、民衆がぶっ壊れたのはぶっ壊れた理由があるわけです。当たり前ですがぶっ壊れた側に責任はありませんし、ぶっ壊れっぱなしで困るのはこの状況を打破しないとメシが食えない宗教関係者(と周辺産業)なのですから、宗教関係者こそがどれだけ巻き返せるかにかかっています。
この議論、いちばん盛り上がったのは私の記憶では、地下鉄サリン事件のころでした。
「なんでこんなカルトが信者を獲得できたのか?」「なぜカルトを見抜けないのか?」が問題となりました。
このとき、アノミー化で誰に救いを求めればよいかわからなくなった民衆に対して、既成宗教はどう対応していくか、カルトにどう免疫をつけていくか、いまの統一教会問題とは比較にならないほど、まじめに宗教家・学者・政治家いりみだれ議論していたものでした。議論が成り立ったのは、まだ既成宗教側に勢いがあったからだとおもいます。
統一教会問題は、宗教家(と周辺産業従事者)の考える「我々はいかにあるべきか」の議論より、ジャーナリストによる「宗教の名で行われた詐欺」のクローズアップが主で、たんなる犯罪集団として処理されつつあります。
ほんらい「いかに宗教はあるべきか?」を既成宗教側が問い、気骨を示さないといけないはずなのですが……。
このアノミーを脱却するためになにができるでしょうか。
明治維新体制の堅持を泣いて喜ぶひとたちを、なぜか「保守」と呼びます。ほんとうに保守なら江戸幕府以前の歴史も参照するものだとばかりおもっていたら、日本では明治が絶対なのです。このひとたちが泣いてよろこぶのは、国家神道の復活という道です。完成中途でぶっ壊されたのですから、これを補完してしまえば、柱として機能します。
ただ、これをやればその限りにおいて近代国家とは相容れませんので、神道非宗教論のような国外向けの理論武装もまた復活させる必要がでてきます。
もう一つは、国家神道(神社本庁教)を破棄して神仏習合まで戻ることです。八百万の神という一般的な民衆の肌感覚に近く、はるかに受け入れはしやすいでしょう。また、近代国家の枠組みとのすり合わせも容易です。
通常であればアノミーからなにもせずに脱却するということはありえないのですが、この数年ほど、神社本庁教の腐りきった断末魔のうめきを眺めているうちに、ビッグモーターやジャニーズのように自壊してしまい、自然と神仏習合の時代に戻り、アノミーから回復していくのではないか?という気もしています。
むろん、完全に旧に復することはありえませんし、すでに破壊されたものは元に戻りませんが、少なくともかき乱してきた片方が自壊してしまえば、混乱は終息します。
個人的には、こんな消極的な解消ではなく、能動的に「かくあるべき」で前向きに解消して欲しいのですけどね……。はたして、どうなるでしょうか。
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