松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2023年9月13日の日録

「のどの小骨」な話(前)

「ばちあたり」について数日前からかんがえています。

だいたいこの手の話になると民衆の宗教ばなれ(不信心)がセットとして語られ、こうなった経緯はさておいて、民衆に非があるようなニュアンスで語られることが多いからです。学生のころから違和感があり30年たち、けっこう大きめの「のどの小骨」化しています。

まだどう書くべきかモヤモヤ感が消えないのですが、基本垂れ流しの無責任日記なので、現時点での思考整理を兼ねて書いてみます。

 

まず前提として、日本は近代国家だということにします。
小室直樹先生をはじめ、近代化が不充分という主張はありますが、一般的な理解に従いましょう。

  

近代は無神論を背景に、神なき世の主人として人間が神になりかわり「所有」概念が芽生えてはじまります。この「所有」概念の展開が、民主主義と資本主義の土台となりました。

日本の近代化が複雑なのは、脱亜入欧政策のいっかんとして、神道の国家神道化、要するに皇祖神を最高神とする、いまの神社本庁教の定款でいう「神宮を本宗とする」体制を近代化と同時並行で構築しようとしてしまったことにあります。宗教が支配した前近代を否定して近代がはじまるはずなのに、その前近代の要素ごと、まるまる導入してしまったわけです。

結果いまの日本は、古来の伝統や文化と、脱亜入欧化のため導入した前近代・近代の思想がごちゃ混ぜになる、なかなかカオスな実験場となってしまいました。

前近代においては、神(&代理人である権力者)がルールを定め、従わない者を「ばちあたり」として罰する構造をとります。近代は、それに代わり人間が定めた「法律」により刑をくらい罰せられるようになります。

近代化(民主化・資本主義化)がすすむほど、神と宗教の出番はなくなり、居場所がなくなります。これ、神社本庁教をはじめ神の権威に依存している勢力には大打撃でしょうし、頭が痛い問題です。「稼げるうちに稼いでおけ」と、土地の不正売買やら、有名神社乗っ取りやら、総長の椅子にしがみついて裁判沙汰とか、見ていられないほど断末魔のうめきに満ちた状況なのも、うなづけます。

 

しかし、宗教の死はほんとうに神の死なのか?

これがもう30年近く悩む疑問点でした。

かりに民主化の進行で宗教が滅んだとしても、最終的に我々が暮らす自然への崇拝と、祖霊信仰はのこります。もっともふるい祖霊崇拝まで、消し去ることはできません。

そういう意味では、共産主義者の予言は、民主化がすすめば宗教が解体するという点では当たるし、もっとも原初的な部分は残るという意味では、外れるでしょう。

 

ここまではほぼ、学生のころから、お寺の御子息やらに議論を吹っ掛けられたらずっと言ってきたことです。経典読むひまがあればマックス・ウェーバーくらい読め、社会学の本くらい図書館で借りて読めと吠えていた時代でした(ウェルナー・ゾンバルトも読むとさらに資本主義がなにかわかります)。

この主張、100%「宗教が死んだら一般人がどう神仏との接点をもつのか?」とお寺の後継者から反論くらいました。「宗教がなくなれば、神と人間をつなぐプロトコル(儀典、祭祀の様式、祭祀の手続・方法)も喪失してしまう」という主張です。

いっけんもっともですが、必要としないひとしかこの世に存在しなくなれば、プロトコルだけ残る意味があるでしょうか?

じつのところ、彼らの行うプロトコルは、時代とともに変わっています。

私が学生のころにはすでにカトリックはラテン語だけでなく、各民族の言語でミサを執り行うことを認めています。当時、日本語における実施の手順が策定される途中でした(数回の改訂ののち、2021年に「ミサの式次第と第一~第四奉献文」として教皇庁に認証されます)。

お供えと拝礼 - 4月10日の日録 - 美風庵だより

また、神社に行き拝殿のまえで二拝二拍手一拝の作法で拝礼しますが、明治以来いろいろ変更をかさね昭和初期に学校で教える作法として文部省が決めたもので、意外とプロトコルとしての歴史はありません。そもそも神仏習合の時代は、一般的にはお宮でも「合掌」していました。神仏分離にあたり違う作法で差別化しなければならなくなったため、二拝二拍手一拝は試行錯誤のすえ編み出されたものです。

(続)

 

13日の記録

平日常勤している事業所のかたから、カレーをいただきました。

さっそく3合ご飯を炊いて、2つ、タッパー込み300gで弁当を詰めます。これは、冷凍しておき、じっさいに持参するときに解凍します。

きちんと3合ぶんカップで計ったはずなのに、どんぶり用に残ったご飯は270gほどです。お茶碗2杯分が1合で300gになるはず……どこかで計量をまちがえた?

ありがたく無水カレーをどんぶりにかけて、いただきます。

オクラがはいってますね……夏野菜カレーなのかな?

 

「小骨」の補足。

学生のころからお寺の跡取りさんとかといろいろ議論をしていて「宗教ばなれ」「神仏ばなれ」とでもいうべき事態について、当時からいずれ崩壊するだろうなとはおもっていたのですが、あれから30年たち、案の定、深刻な事態になっています。

当時もいまもほとんどの場合「不信心は日本人のくせにけしからん」で話がおわるのがつねで、私は宗教関係者ではないこともあって「けしからんで済むのか?」とずっと違和感を抱いていました。いずれ書こうとおもってはいたものの、5回書き直してやっとここのレベルで、われながら愕然としております。

いずれどこかで時間が出来れば頑張らないといけないんでしょうけどね……。