「まだ見ぬコーンウォールへの旅」
【第34回】Live 『Reveries of Cornwall』 - YouTube
三枝成彰さんの名曲です。はい。メロディーの元ネタは、ガンダムですね。
いつも拝読させていただいているブログで、美しい山陰・浜田の夕焼け朝焼けをながめているのですが、真っ赤に染まった景色には、こういう曲がよく合います。
元はオーボエがメインの曲ですが、頭で鳴るのはユーフォニアム版のほうです。
一神教と多神教
ひさしぶりに血圧でくらくらしながら文章を書いたため書き落としがおおく(笑)、読み返すたびに細かく修正しています。お許しください。(2023.07.08)
つづきです。
「かえたくない、かわりたくない、情勢の変化なんかみたくない」という「座して死ぬほうがマシ」路線にあきれております(笑)
2008年までここに住み、ここから仕事にかよってたんだよなぁ……とおもうと、なにやらあのころとは別物のようです。齢をとると頑固になるというのは、ほんとうだと実感します。
(2)この地域に住んでいるかぎり、信仰している宗教がなんにせよすべて氏子のはずだ。抜けるとかそういうものではない。けしからん話だ。馬鹿か。こういうやつは出て行け。
そのなかでいちばん食ってかかられたのが、この意見の持ち主(1名)です。
私のような偏差値30台の地元最底辺高校卒の発言ではありません。旧制大卒(たしか90代)だから当時としては超インテリ層のはずなのに、堂々と吠えるのでびっくりします。
明治政府は、明治4年7月4日(1871年8月19日)に太政官布告第三二二号「大小神社氏子取調」を発布し、氏子調を開始する。氏子調は同法令によって郷社とされた神社の氏子となることを義務付けるもので、宗教政策の側面と同時に、戸籍や身分証明の側面を持つ。これは、先史の寺請制度の後継制度と言え、寺請制度は同年9月に廃止されている。簡単に言えば、それまで寺請制度によって仏教寺院の檀家となることを義務付けられていたのが、神道の制度に置き換わったということである。
(略)
氏子調廃止後は、必然的に郷社は行政機能を喪失することとなるが、郷社定則は廃止されず近代の氏神・氏子制度の基本として存続し、現代の氏子区域の基となった。
(略)
一村一社での氏神-氏子意識を定着させるなど、後の神社神道への礎となった。
神社本庁教が定義する「氏子」とはほんらいこれのことです。ただこういう役人的な説明は嫌がられるし、組織の正体が露見するため、自然崇拝・祖先崇拝の延長にあり、神の子としての立場が「氏子」と表向きは説明しています。
少しかんがえれば、現在行われている制度と説明に断絶があるのがわかります。同じ祖先を神として祀る同姓同族集団の話が、いつの間にかただのエリア分けに化けているからです。
この飛躍、不思議におもいませんか。
似たようなケースがほかにもあります。書道です。
明治政府は、江戸幕府の公用書体であり寺子屋で教えていた「御家流(尊円流)」から、公用書体を唐様(楷書)に切り替えます。書道をならおうとおもえば「(御家流以前の)平安時代のかな書道」か「中国の漢字書道」のふた通りに断裂するのは、日下部鳴鶴を登用し江戸幕府の公用書体をバッサリ排除したからにほかなりません。
結果として、多少書道を習ったくらいではまったく歯がたたず、ふるい過去帳を読むために何年もべつに特訓しなければならない状況が生まれています。私もいまだに苦労しています。
文化だ伝統だと吠えている人間は、じつは「保守」どころか明治維新で登場した文化伝統破壊者のケツ持ちをしているにすぎません。日本政治における「保守」とは、明治に確立した歴史解釈と伝統理解を堅持することですから、それ以前の姿との比較考察すら邪道なのです。
なんの冗句だと笑うしかありません。
日本人は明治になってから新たに出来たのではありません。それ以前から存在します。
この大卒インテリが「御寺泉涌寺?行ったことある!それがなんだ!」とぬかすので、なんで知ってるならもう少し明治以前の歴史背景を理解できないのかと頭痛すらしてきます。
そもそも、神社本庁教が定款にさだめる「神宮を本宗とする」とする姿勢は国家神道から受け継いだものです。
神社本庁教設立時、旧国弊社・官幣社クラスでも「神宮を本宗とする」つまり神に序列があることをもはや国家権力でもないくせに強いる点を問題とし、数年ほど加入しなかったところがあります。現在も協力関係は維持しつつ、単立神社のところもあります。
かたや八百万(やおよろず)の神と話し、あらゆるものあらゆるところに神は在ると教えるいっぽうで、宗教法人の定款には「神宮を本宗とする」とあります。フラットにみせかけて、じつはピラミッド構造だと示しているわけです。
これがなにを意味するでしょうか。要は、国家神道には、ありえないことに一神教と多神教の両面が存在しています。
ざっくり言えば、一神教とは内村鑑三が「神が我を信者となさしめられた」と書いた世界です。神はいわば飼い主であり、信者はペットの関係にあります。生殺与奪すべては神にゆだねるもので、神の思し召しにすがるしかありません。
この考えかたをヒトとモノの関係に適用したのが「所有権」の原型であり、神の代わりに王が統治する「王権神授説」も、これを下敷きにしています*1。
かたや、多神教はどうでしょうか。
ひとが神をえらぶ関係にあります。
御利益をもとめて神社やお寺をあちこちお参りするひとの発想が、まさに多神教です。ひとがお願いをする神を選べ、主体性は人間側にあります。
国家神道を理解するキモのひとつは、体制下、多神教から一神教への組み換えが行われたことを把握することです。皇祖神を最上位の存在とし、その子孫である天皇は現人神であり、すべての民は天皇の赤子という発想は、一神教と王権神授説を和風にアレンジした結果といえます。欧米先進国の精神的支柱であるキリスト教そのものは冷遇しつつも、脱亜入欧政策のひとつとして、神道そのものをつくりかえる荒業で対応したわけです。
「日本の総氏神」が、或る皇祖神を祀る神社のキャッチフレーズから、国家の根幹をなす思想に大昇格した結果でもありました。
「氏子」を「神として共通の祖先を崇拝する同姓同族集団」から、個々の同姓同族集団を否定し、すべからく天皇の赤子と位置づけなおしたことは、ながい歴史から見れば暴挙であり、正面切って主張されれば、私は「明治維新だけで神を語るな」と反論せざるを得ません。
おかげで各地に、過去を塗り消され*2祭神を取り替えられ*3神職は追われ*4、バッサリと過去を切り捨てた神社がずらずらある始末。
これが文化破壊・歴史破壊・伝統破壊でなくていったいなんなのでしょうか?
神社本庁教(国家神道)の思想は、明治以降、出雲やその他の出身者を排除し、宗教政策のとりまとめを神宮が独占していく過程で成り立ったものであり、あくまでも現在においては一宗教法人(そしてそのバックにいる神宮)の見解にすぎません。
戦前、日本のプロテスタント教会は宮城遙拝を偶像礼拝として問題視した。1941年、日本のプロテスタント教会の多くは、日本基督教団に統合されて国家の監督下に置かれ、宮城遥拝も実施された。日本基督教団は皇室が「日本国民の宗家」であることを受け入れ、1942年、教団統理は伊勢神宮の参拝も行った。
明治以降、国家神道(とその中枢にいる神宮)は、みずからを「宗教の枠外にある非宗教」と位置付けることで、他の宗教を支配し屈服させる力をもつに至ります。
また、式年遷宮ほかを公金投入できる「国事」とすることにも成功しました。明治以前、信長をはじめとする権力者や徳川将軍家の寄進に頼っていた遷宮費は、明治政府があらたなスポンサーとなります。
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こういう汚く内向きでカネがらみの権力闘争が頻発する原因は、(宗教というよりかは)国家神道の時代から神社本庁教が権力志向の政治集団であることにつきます。
このひとたちの言い分だけを鵜呑みにしたら伝統文化を見誤りかねません。二礼二拍手一礼ですら、原型は昭和初期に文部省がさだめたものです。
と、大卒インテリさん相手に2時間浪費して、撤収させました。
それにしてもあれだけ偉そうにしておいて、明治時代は脱亜入欧をスローガンとする事実上の革命期だったことに気づかないとは、なにを勉強してきたんでしょうか。革命期には正義でも、いまとなってはそれ以外の道がありえないわけではないと、なぜ考えられないのでしょう?
けっきょく、
- できるようにやる。直会のかしわめしとがめ煮は仕出し屋から調達OKとする。
- できる範囲でやる。掃除と祭事がダブる月は、いずれかの日に片寄せてまとめて行ってOKとする。
- 各戸から誰かが出てきてみんなでやる。齢がはなれすぎるとどこのだれかわからないため、今度から出席確認票を準備して、どの家の者かわかるようサインしてもらう。
- 向こう3年やってみて、不都合があれば見直す。
という話をしました。たぶん、大筋こうなるとおもいます。
しかし、なんで自分より年上つかまえて、引っ越して15年以上たつ私が議論まとめてるんだとおもうと、少々胃が痛くなってきます。ほぼ年齢がかわらない中間層は、じっさいそこに住んでいるだけに、どうも年上に口出ししたくない様子。
なんか、みっともないなぁ、という気がします。
衰退するのもしかたがありません。
はやめに外に出て正解でした。どうしようもありません(笑)