松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2023年7月4日の日録

はたしてゼレ一派にその度胸があるか。

「ワグネル抜きでウクライナ侵略はありえない」と過大視してきたメディアも、ワグネルの反乱がさっさと鎮圧されたことでロシア叩きのネタをひとつ失っています。

米紙ワシントン・ポストは6月30日、複数の関係者の話として、米中央情報局(CIA)のバーンズ長官が6月初旬にロシアの侵攻が続くウクライナを極秘訪問し、ゼレンスキー大統領らと会談したと報じた。ウクライナによる反転攻勢の開始と同時期で、ウクライナ側は領土奪還を早期に進め、年末までにロシアとの停戦交渉を開始したいと伝えたという。
同紙によると、ウクライナ側は今秋までに相当程度の領土を奪還することを目標に挙げた。2014年にロシアが一方的に併合した南部クリミア半島との境界付近に大砲やミサイルシステムを移動させ、東部でも反転攻勢を進めるなどと説明したとしている。

CIA長官、ウクライナ極秘訪問 停戦交渉の要望を聴取 米紙報道(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

ワグネルの反乱前に行われた会談で、停戦交渉について議論したとの報道です。

すでに日本の1年分の軍事予算をうわまわる金を旧西側諸国が投下し、兵器も潤沢に供給され、兵隊さんそのものも各国の「軍事顧問団」が肩代わりしているという話があります。いちいちすべてニュース記事のリンクを保存していなかったので断定はしませんが、ほぼ朝鮮戦争の「国連軍」と同様になりつつあります。

そのようななかで、ゼレンスキーさんが停戦交渉を開始したいとは?どうもわかりません。アメリカが「もうこれ以上支えてあげられないのでお手打ちせれ」というならわかりますが、「撃ちてし止まむ」路線以外とりようがないゼレンスキーさんが停戦交渉?

1943年(昭和18年)に入ると、戦意高揚のプロパガンダの一環として、「撃ちてし止まむ」が用いられるようになった。情報局が発行した雑誌『週報』333号(昭和18年3月3日発行)は、「撃ちてし止まむ」の意味と意義について、1ページを割いて解説した。

大東亜戦争を戦ひ抜く一億の決意を示す言葉として「撃ちてし止まむ」の合言葉が用ひられてゐますが、「撃ちてし止まむ」とは結局「撃たずば止まじ」すなはち殲滅しなければ止まないといふ意味です。
(中略)
一たび皇師を動かし給うた以上、たゞ敵米英の撃滅あるのみであります。皇民すべからく灼熱の火となつて米英を倒すまで戦つて戦つて戦ひ抜くべきであります。
(中略)
そして、「撃ちてし止まむ」の精神は、単に前線だけではなく銃後の生産戦に、総力戦に、一億国民の悉くに、今こそ「撃ちてし止まむ」の烈々たる気魄が要請されるのであります。
-『週報』第三三三号 P.23

もしかすると、戦線崩壊を見越しアメリカに亡命込みでCIAが動いているのかもしれません。ワグネルの反乱は、CIA経由でウクライナとワグネルが内通していたという噂もながれてますし、すべて鵜呑みにはできませんが、もうそろそろ万策尽きて決着がつく気もしています。ただ、そうなってくるとウクライナのロビイストだったボケ気味のバイデンとその息子の立場も……。平和にはほど遠いし、なんか自民党政権がよろこんで引きずり込まれる悪寒もしますね。

軍拡の口実に台湾有事あおってましたが、あれもどうなったんでしょうか。

まぁ、ある程度は中国の軍拡に付き合わないとしょうがないのは、しかたがないとしてもね……。

 

あまり書くとオカルトになってしまいますが。

神棚とトイレにお榊をお供えするようにしています。神棚のある書斎のほうが室温がたかく、毎回はやく痛みます。

この数日、体調がすぐれません。おなかを下すとかそういうことはありませんが、やたらとウ◎コがくさいのです。夜トイレに起きてふと気づいたのですが、水が茶色くなっています(倒れないよう、小石で重心をとっています)。

やっぱりなにか、身体からへんなものがでているんでしょうかね……。あまりかくとオカルトになってしまいますが。

 

もめごとのつづき。

2023年7月2日の日録 - 美風庵だより

先日、実家にもどって3人(実父、近所のひと、私)で討論した話を書きました。

その後も関係者のほとんどが年金暮らしの「サンデー毎日」さんだらけということもあり、断続的に電話かかってきてめんどうなことこのうえありません(笑)

実父がまぁ、私が小学校のころ嫁(実母)に逃げられたくらい

おれの 言うことは 正しい 

間違いがあるとするなら おれに 嘘を教えた親兄弟知人が 悪い

派で議論が成り立たないKY男なので、話のまとめ役になれないというのもあるのですが。

で。

議論に加わってみておもうのは、世帯数が減少しているから負担が増えているというのは、かなり違う印象をうけます。

まず、家長制の名残りというか、長老が祭主であるという漠然とした刷り込みがあり、家族の誰かが奉仕に行けばいい、という発想がありません。結果、足腰の弱った年寄りが手すりにつかまりながら、高低差20mの坂を掃き掃除してキツイキツイと辞めたがっています。

つぎに、若い世代で専業農家・自営業はほぼ絶滅しています。奥さまがたもなんだかんだでパートやらなにやら行っています。雇い主が決めた就業ルールが優先しますから、月初日と中日(なかび)に境内と参道(坂)の清掃ったって、平日にひとが集まるわけがありません。結果としてサンデー毎日な年金生活者以外、動員のかけようがないということになります。

みっつめ。「家族の誰かを差し出せばOKと公式にお触れをすればよいのではないか」というと、私がそういう提案をしたことを知り、奥さま2名から「私は嫁に来たんですよ(=厳密にはこの家のもんじゃありません。婚家の祭事は男がやれ)。なんで女子供をあてこむんですか!」という抗議が出ます。

よっつめ。「「なるべくひとが集まれる日(日祝日)に実施する」と公式にお触れを出せばいいのではないか」というと、「じぶんの代でルールを変えるのはご先祖様に申し訳ない」と年長者ほど言い出して、話が止まります。

つまり。

「就労環境の変化なんて考えたくない。現状を変えたくない。逃げるやつはけしからん。みんな道連れ」

というわけです。

あと10年くらいしてこの世代が滅ぶしか、次の道はかんがえようがありません。

やれやれ。

どうもこうなってくると、将来、貧窮で私がくたばっていなければ、近所の神社に相談して廃社の手続きやらされる可能性もあるかもしれません。

じつは今回の話ではじめて知ったことがあります。

ほかの神社から神職招いて祭事をやっているため、ながねん「お宮」だと疑いもしなかったのですが、境内にあるお堂のほうがふるく、そちらで宗教法人登記がなされています。

さいあく、宗教法人格を売って、そのカネでお宮もお堂も更地にしてお帰りいただくという選択もとれそうです。最悪の選択をしても、幸か不幸か懐は痛まずに済むかもしれません。