松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4丁目 氷川神社


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氷川神社 (さいたま市)

武蔵一宮 氷川神社

27日、以前から訪問してみたかった氷川神社を訪ねることができました。

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氷川神社 - Wikipedia

宮中の四方拝で遥拝される一社。
(略)
現在の主祭神は以下の3柱。
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと)
現在の祭神は、1833年天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。
(略)
社伝によれば、孝昭天皇3年4月の創建という[5]。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し[6]、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。

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一般的な理解はwikiにあるとおりで、武蔵の地は出雲族の入植地であり、祖神を祀る神社がこの氷川神社ということになろうかと思います。ここで敢えて「一般的」と付したのは、どうしても出雲に押し込めて説明を試みる通説への反発心があるからです。

九州福岡に住み、多少でも八代の妙見信仰について調べたことがあれば、熊本・八代に「白山」を源流とする「氷川」があることに、すぐ気づきます。宮原サービスエリアを利用するとき、八代郡氷川町という地名で気づいた方もおられるでしょう。

その氷川町(というより、氷川の流域)には、八大竜王として龍神を祀る神社が点在しています。八大竜王とは、大幡主(博多のお櫛田さん、タノカンサー、埴安命、神皇産霊神、国常立命)の子で高木大神(高皇産霊神)の入り婿 豊玉彦の別名です。

出雲族とひとくくりにされていますが、おそらくは八代・氷川に居た一族が中心に居たのでしょう。ほかの地域から移住してきた一部だったのか、八代・氷川からの入植者がすべてだったのかは、知る由もありませんが……。

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見沼の竜伝承 - Wikipedia

 見沼の竜伝承(みぬまのりゅうでんしょう)とは、現在の埼玉県さいたま市にかつてあった巨大な沼「見沼」の周辺にみられる竜の伝承群のことである。さいたま市見沼区緑区のほか、南は川口市から北はさいたま市岩槻区まで、各地に伝承が残っている。 

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ここを出雲族の入植地とだけ考えると、本当の姿が見えません。おそらく本当の祭神は、豊玉彦であり、その父の大幡主なのです。大己貴(大国主)は表に出せない大幡主の代わりに、使われているにすぎません。

社殿の姿かたち、表向きの御祭神は違えども、秩父神社氷川神社は、根底は同じなのです。とうとう狂ったかと思われる向きもあるかもしれませんが、おそらくこの結論でそう間違ってはいないでしょう。ただ、秩父神社より氷川神社のほうがだいぶ新しいと感じます。背景が整理されすぎているのです。

この結論に至った傍証は、社殿の周囲にある摂社・末社の顔ぶれにあります。

門客人神社にお祀りされているアシナヅチテナヅチとは、金山彦・埴安姫夫婦のことです。彼ら夫婦の子 奇稲田姫を得るかわりに、スサノオは八岐大蛇退治を行うことになっています。

行橋市元永 大祖大神社・須佐神社 - 美風庵だより

すでにこの日記では、鉱山の神 金山彦 と 山の神 月読命(大山祗)の大戦争スサノオが介入して決着をつけた話が、八岐大蛇伝承の原型ではないかと書きました。

アラハバキ - Wikipedia

江戸時代まではアラハバキを祀る神社だったとのことです。製鉄の神で、その正体は金山彦だったと考えています。日本書紀で神武東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)も、出雲の国譲りで抵抗した建御名方(たけみなかた)も、母方では金山彦の血筋であることを考えれば、金山彦を奉斎した一族の中に、パルチザン化した者が居たのでしょう。現在の氷川神社が門客人神社の御祭神にアシナヅチテナヅチを充てているのは、関係を理解しているひとがちゃんと存在していることの証左といえます。

その隣の御嶽神社は、もともと蔵王権現を祀るお宮だったのを、神仏判然令に従い、大己貴(大国主)・少彦名(事代主)としたものと思えます。蔵王権現も熊野信仰も、基本的には大幡主とその一族への信仰が変化したものであると、赤貧は見ています。ここも大幡主の祭祀なのです。

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池に浮かぶ宗像神社も、大己貴の妃3人と、彼に妃を差し出した各部族を祀るものです。現在の宗像大社は、妃の名前だけ残して、妃を差し出された男王(大己貴、大国主)を隠ぺいしています。しかも男王の痕跡を消去するために、宗像三女神天照大神の妹とか言ってるわけですから、現王朝による歴史改ざんの共犯といってもよいでしょう。

この地に入植した人たちのなかに、彼らを祖先に持つ人たちが居たのでしょう。祖先を大事にする姿勢には、現王朝の都合なんてどうでもよい話ではあるのですが……。

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境内が広大なため、赤貧が数えただけでも3台の軽トラに清掃道具を積み込み、各所で作業の方が清掃奉仕されておられました。やたらと目が合う作業員の方が見えなくなったのを機に、松尾神社を撮影しました。

小郡市大崎 媛社神社(七夕神社) - 美風庵だより

小郡市稲吉 老松神社(老松宮) - 美風庵だより

大山咋(おおやまくい)の別名は大物主であり、天之忍穂耳と市杵嶋姫の子です。ほかの御祭神と少し毛色が異なると思われるかもしれませんが、七夕伝承にあるとおり、二人は別れさせられ、その後、市杵嶋姫は大己貴(大国主)に再嫁します。大己貴から見れば、連れ子にあたるわけです。

ここまで見ると、まず秩父に入植し、コロニーが大きくなってさらに移住し、あらためて氷川(見沼)が成立した流れが見えてくるかと思います。秩父では偉大な祖神が天神地祇を従える姿が残っていましたが、ここでは、数世代にわたる一族の祖神が、それぞれの関係に配慮しつつ、ずらりと祀られているのです。

(2020.03.27訪問)