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印鑰(いんやく)神社という社名の神社については、すでに柳川市大和町鷹ノ尾の印鑰神社について、この日記で触れました。
今回はじめて大刀洗町三川地区の印鑰神社を訪問したのですが、御神紋が日足紋です。
熊襲ではありませんか。
休憩がてら福岡県神社誌をめくると、御祭神は「宇多能大禰奈神」と、これまた聞きなれない神名が記載されています。
ぱっと見た雰囲気は、元は玉垂宮だったのではないか、と思えるのですが、確証はありません。日足紋の印鑰神社というのは想定外で、まずは御祭神が何者かを考えなければ、糸口はないように思えます。
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(略)
(天照)大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひのみこと)〕が児、宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。
(略)
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つまり、この神社でいう印鑰とは、これまで高良山や柳川市大和町鷹ノ尾地区でみたような意味ではないということになります。神宮内宮に仕える侍女として、天岩戸の鑰(鍵)を預かった者ということになるのです。
崇神天皇の命により、天照大神を祀る地を探していた倭姫命が、大物忌(いまふうに言えば巫女のチームリーダー)に宇太乃大称奈とその弟を採用した、という話は、これまで「印鑰とは任地にある倉の鍵」といったふうに考えていた赤貧にとっては、なかなか衝撃でした。
神宮の内宮と外宮を6月に訪問しました。そこで花菱紋を発見して、崇神王朝以前の日本中で活躍した神を徹底して祀り上げて押し込めた(封じ込めた)場所だとやっと理解したのですが、飛行機代とか電車代を使わずとも、自転車で来れる場所に、こんなにわかりやすい証拠があったとは……。うかつでした。
むろん、高良山や柳川市大和町鷹ノ尾の印鑰神社もこの解釈ができるかどうかはわかりません。ただ、これまで「経済的・財政的なものの鍵」だと思っていたものを、もう一度、じつは「精神的な鍵」だったのではないか、と再検討してみる余地はありそうです。
熊襲の象徴である日足紋と併せて考えるとき、おそらくは宇太乃大称奈は熊襲の出身だったのでしょう。
出世した偉大な祖先を祀る神社として、在郷の一族郎党が建てたものではないか、と思います。
境内には、新田大明神を祀る石祠があります。新田大明神とあり、おそらくは南北朝時代にこの地を治めた武将 新田義信を祀るものと思うのですが、定かではありません。もっといろいろと調べてみようと思います。
(2019.09.07訪問)