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もともとは、7月12日に衣羽(えば)神社を訪問したことがきっかけでした。
水都広島の水辺デザイン① 太田川デルタ地帯のオープンスペース|ミズベリング|MIZBERING
広島市中心部は巨大な三角州で、調べてみるといくつかむかしは島だった地域があり、そこには古社があるだろうと見当をつけて、適当に行ってみた場所が、たまたま広島市中区江波でした。なぜこの地名を選択する気になったのかは勘の働くままとしか言いようがありませんが、いまになってみれば、鷹尾神社の記憶がうっすらと残っていたのかな、という気もします。
鷹尾神社の由緒には、「江波大納言(えばだいなごん)紀公昌」が大宮司職を得て、その子孫が奉仕したとあります。
広島の江波は「餌場」が由来とされているため、このふたつに直接の関係はないかもしれません。ただ、まったく関連がないともこれだけでは言い切れず、今後も継続して調べてみる必要がありそうです。
鷹尾神社で驚くのは、福岡県神社誌には「稲荷神社」と「日吉神社」があると書かれているのに、現地には、「子安神社」と「牛の宮」、そしてもうひとつ石祠がある点です。書けない理由があったのか、編集側の手違いなのかはよくわかりません。
境内の隅に打ち壊された石祠がありましたので、もしかすると、戦前にはほかにも摂社末社があったのかもしれません。
道路拡張工事のさい、神社を建て直してうしろに後退したという話は以前ききましたので、その点も考慮する必要がありそうです。
鷹尾神社の御神紋は並び鷹の羽紋です。拝殿の正面から屋根まで、あらゆるところに打たれています。ところが拝殿の鬼瓦を見ると、祗園様の御神紋にしか見えないものがついています。
牛の宮の横にある石祠にも、祗園守紋とおぼしきものがあります。石祠のなかをのぞくと、夫婦神が祀られており、スサノオと奇稲田姫のようです。
この社格の神社が、まさかよその神社の鬼瓦を使い回すわけはありませんから、鷹尾神社は一時的にせよ、祗園社だった時代があるのかもしれません。
大宮司職をながねん勤めた紀氏の祖は武内宿禰と言われています。
古事記・日本書紀では神功皇后の臣下扱いですが、内実は、玉垂命=筑紫君が仮託された存在です。この神社は紀氏(筑紫君)と熊襲(鷹の羽紋)が協調関係にあった時代を残しています。神功皇后・応神天皇・仲哀天皇という現在の御祭神は、古事記・日本書紀の影響下で御祭神が上書きされた結果であり、古代史の手がかりとしては、あまりあてになりません。
むかし、高良玉垂宮の別宮だった時期までは、もともとの性格を残していたのでしょう。
福岡県神社誌の清和天皇御請願により正八幡宮として勧請されたという記述は、あくまでもこの神社の歴史の一面でしかありません。鳥居前の案内板と読み比べればわかるとおり、時代の移り変わりのなかで相当な変転を経ていることがわかります。また、生き延びるために表の顔と裏の顔が存在し続けてきたことも、わかります。
立派な楼門のなかにある左右の伴神像で、やっと木瓜紋を見つけることができました。ほんの少しだけ、いまも玉垂宮だった痕跡は残っています。
(2019.07.28訪問)