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広響定期に出かけたついでに、広島の神社めぐりを考えていました。
結果として、どこに行くかを絞り切れぬまま当日を迎え、どれも中途半端な結果になったのが残念ですが、思うところを率直に記録しておこうと思います。
神社から日本の起源を探る旅をしようと考えると、どうしても被爆で焼け野原となった広島は、価値的には低くなってしまいます。私たちが見たいのは「過去の痕跡」なので、焼失から再建された地域の努力は素晴らしいと思うものの、やはり見どころは減ってしまっています。
地理院地図をみると、うっすらと高低差があるのがわかります。島というより巨大な砂州が、上流からの土砂と人工的な埋立でつながり、現在の市街地が形成されたといえそうです。
地理院地図で地形を眺め、ふと気になった江波地区を訪問しました。もとは独立した島だったものが、埋立により地続きになった場所とのことで、そういうところなら、過去の痕跡がわかりやすく残っている可能性があると、考えました。
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創建年月日は明確でないが、広島市内随一の由緒正しい古社。安芸の国の国司所祭の官社を収録した古代の神名帳「官社一百八十社」の中に三位衣羽明神と記載されている。従って、前記神名帳が作成された、正和二年(1313)以前に創建されている。明治四年(1871)官の指揮により旧名に復し、衣羽神社と改める。
(現地案内板より)
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地名は江波ですが、神社の名前は「衣羽」。明治になるまでは衣羽明神と名乗っていたという由緒書きを読んでいて、その下にさらりと「長門島大明神」とあるのに気づきます。宗像三女神を祀っているから厳島神社の支配下なのだろうとぼんやり見当をつけていましたが、どうもそんな簡単な話ではなさげです。
安曇族や筑紫君をはじめとした海の民族が、九州から各地へ展開した痕跡を経由地だったであろう「長門」という名称にとどめています。
そういえば、下関市内にも厳島神社がありました。この江波の地は、重要な港として航路に組み込まれていたに違いありません。船旅の安全を祈願する、だいじな神様だったのです。
境内には、摂社が4つあります。別に祠があるのが須佐神社、社殿と須佐神社の間にまとめて建てられているのが、住吉神社・天満宮・恵比須神社です。
気になったポイントはいくつかあります。須佐神社の前身が「荒神社」となっていることです。荒神様は火伏せの神様として祀られているもので、その字面と(乱暴者の)イメージから、カグツチ=金山彦ではなく、スサノオを祭神とする事例がみられます。
台所に荒神様の神棚があったり、お札があったりするのは、べつに荒神様が台所の神様だからというわけではなく、火を使うところだから火の神様を祀っていたわけです。
これがもし、由来不詳でなければ、大火があったときに勧請したのだろうと漠然と考えますが、もしかするともとは幸神さま(大己貴=大国主)であったのが、祭神が入れ替わって須佐神社に落ち着いた可能性も、否定はできません。本殿の相殿神として、大己貴がお祀りされているのは、それを示している可能性があります。
もうひとつ気になるのは、住吉三神の存在です。摂津の住吉大社からの勧請となっていますが、宗像三女神との密接な関連を考えれば、もともと祭祀されていたものを、あらためて正式に祀りなおした可能性があります。そう考えるのは、相殿神の大綿津見(大海祗)=少童神=山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの存在で、山幸彦の孫は、住吉三神のひとり、安曇磯良です。両方見比べれば、ある程度の祭祀がすでにあり、正式に祀りなおしたというのが、妥当ではないかと感じます。
衣羽神社は、江波山の上にある小さな神社ですが、この地域の歴史がつまっていました。瀬戸内海経由で、各地がむすばれていたことを、しっかりと記録している貴重な存在です。
この神社を紹介しているサイトには、御祭礼時に飾る幕が掲載されていました。「三つ盛亀甲に花菱」は、市杵島姫だから当然としても、住吉神の三つ巴もしっかりと使われています。
衣羽神社から路面電車の江波電停に戻る途中、聖山稲生神社というのがありました。広島辺りに来ると、稲荷神社ではなく稲生神社という名称が多く、考えてみる必要があります。
ほんとうはこの近くにある「海神宮」にも行きたかったのですが、時間の都合で断念しました。もう少し事前に道を調べないと、いけませんね……。
(2019.07.12訪問)