松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

大分県日田市十二町 玉垂神社

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九州電力日田営業所の裏手にある神社です。鳥居はふたつあり、赤貧が最初に気づいたほうは「黒男社」、神社にはいり見わたしてから気づいたほうは「玉垂社」とあります。地元では同じ神社と認識されているようです。途中でなんらかの事情があり玉垂宮を名乗れなくなり、黒男社と改称され、再度、玉垂宮を名乗れるようになったのでしょう。

社伝の脇には摂社と思われる社がひとつ、その前に石祠が三つあります。墨書されたり石に刻まれていたであろう文字が読めなくなっており、これらが誰を祀るものなのかが、わかりません。

隣に社務所兼用の公民館があり、なかに誰かいれば訊ねようと思ったのですが、車は駐車場全部停まっているのに、誰もいません。

地図を楽しむ・古代史の謎

ネットでは現地に案内板があるらしいのでだいぶ探しましたが、見当たりませんでした。看板がとれた骨組らしきものがあったので、もしかすると台風かなにかで破損し、そのままになっているのかもしれません。

黒男社という名称の神社は、武内宿禰を祀る神社の場合と、大国主を祀る神社の場合があり、いずれか判断に迷うこともあるのですが、ここは間違いなく武内宿禰を祀っていると考えてよいでしょう。

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ずらりと社殿改修の奉賛者名が玉垣に刻まれていますが、武内だらけ。日田はいちおう本家筋の家がある場所で、赤貧の姓氏もいくつか刻まれているのですが、武内の数には全く及びません。

「武内」さんの由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典

大分県のなかでも、日田は「武内」姓の多いエリアです。

武内宿禰は、ほんとうは「武」「内宿禰」、「タケ」の「内大臣(=今でいう首相)」なのですが、不思議と後世に残っている姓氏は、武内です。どうしてこうなったかも、いずれしっかりと考えてみないといけません。

西国11国の宗廟、九州総社の地位を宇佐宮に奪われ、玉垂宮は一部をのぞき八幡宮に衣替えするか、黒男社などと名前を変えて生き残るかの選択をせまられることになります。そんななか、日田に生き残りがあったのは、筑紫君に対する根強い信仰があったからにほかなりません。

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「玉垂社」の扁額が、地域の信仰の厚さを物語っています。

武内さんが祖神を祀る玉垂宮として、これからも大事に残っていってほしいものです。

(2019.06.22訪問)

体力の限界

 

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12日にGW代休の残りの消化を兼ねて、広響定期+神社めぐりを実施しました。
13,14,15は地元の祇園さまの山笠でした。

12日は、24,000歩。15日は、20,000歩と、なかなかの距離を移動しました。おかげで左足に豆ができてしまい、15日の追い山は、オロナイン軟膏を塗って靴下2枚履きして地下足袋をはき、なんとかしのぎました。

とりあえず寝ます。しかし。なんでジモティでもないのに山笠に動員くらってるんでしょうね。町内会役員だからしょうがないんだけど……。退任したら逃げよう。




 

北九州市小倉北区京町 瘡守稲荷神社

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小倉駅のペデストリアンデッキから、アイムを見上げると、神社がみえます。

これが、瘡守(かさもり)稲荷神社です。

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小倉駅前のアイム(最初は小倉そごう、続いて玉屋、さらに伊勢丹、そしてコレットだった建物)12階にあります。
学生のころ仲良かった女性の実家が小倉競輪場近くにあり、そのお嬢さんと一緒に来たとき、教えてもらった記憶があります。
「ここはむかし寺と神社があったところで、お侍さんの骨が1,000体発見された」「地下にお侍の幽霊が出る」と、まるで心霊スポット扱いの言いかただったので、彼女の丸っこい顔といっしょに、よく覚えています。
(注)あくまでも噂なので、誇張があるかもしれません。
 
西小倉駅近くに知人の事務所があるため、たまにアイム9階の書店は利用するのですが、そこから上にエスカレータであがることはありませんでした。赤貧は霊感はないはずですが、リバーウォークなどと比較してもどこか空気が重く、長居すると首が重くなり、帰宅してすぐ風呂に入らないとしんどいのです。
 
さいきん、神社ネタをどんどん書くようになって、ふと、思い出しました。

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じつに立派なお稲荷さんですが、可哀想にまったく緑がありません。また、鎮守の神様と言いつつ、このお稲荷さんに対する案内表示はまったくないし、出入り口すら探さないとわかりません。

お守りの自動販売機というのはたまにみますが、御神札の自動販売機というのは斬新でした。
小倉そごう、玉屋、伊勢丹、コレットと何度も店を変えてきた原因のひとつは、このお稲荷さんの扱いにあるのではないか、という気もしてきます。

つばめの杜ひろば | JR博多シティ/アミュプラザ博多公式サイト

新しい博多駅ビルにも鉄道神社がありますし、上手くやれば御利益もあるような気がするのですが。

寛永(自一六二四年至一六四四年)の頃、小倉城主小笠原候に仕える真砂政次郎と言う武士が、主君に従って江戸に滞在するうちに、花柳街に遊び瘡疾(性病)を患いました。
当時の医薬では効果少く、友人の勧めで江戸南方の瘡毒に霊験新といわれる瘡守稲荷神社に詣で、平癒を祈願しました。その時政次郎は、「速やかに癒えしめ給わば、帰郷して祠を建て、厚く敬ひ奉らむ」との誓詞を捧げました。その甲斐あって、幾許もなく病癒え、壮健の身となって帰郷することが出来ました。
しかし、帰郷した政次郎は、多忙に取紛れて一年余も誓詞のことを忘れていました。すると、ある梅雨の夜、夢心地のうちに門前に騎馬の音が聞こえ、更に「汝は、江戸にて瘡の癒えたるを忘れたりや」との叱責の声を聞きました。
政次郎は大いに悔い、急ぎ神恩に報いるために、家人、親族の協力を得て、博労町(現在のこの地)に在った宝典寺別院の大日堂境内に祠を建て、寛永十四年(一六三七年)五月十五日鎮座の祭典を挙げました。これがこの神社の起りです。
以来、小倉に疱瘡等の疫病が流行する度に、霊験著しく、城主も深く感激して、小笠原家の定紋(三階菱)つきの幕と提灯並に石灯籠を寄進されたといいます。
その後、昭和の時代に至って、老朽した祠を改築することになり、信徒総代安倍寛は講社一同と相計り、昭和三十四年に新しい社殿を建立しました。その折、近傍に在った宮地嶽神社の祠も荒廃していましたので、その祭神を相殿祭神として崇敬を加えることになりました。
昭和六十三年十二月、この地区を北九州市の表玄関として整備するための再開発事業が起り、施工者の小倉駅東地区市街地再開発組合と再開発ビルの核店舗株式会社小倉そごうは、神社講社代表と協議を重ねた結果、再開発ビルの屋上に遷座奉り、今後は地域の鎮守として、またこのビルの安全と小倉そごうを始めとする営業者の商売繁盛の守護神としてあがめることになりました。遷座の期日は平成五年十月一日です。
なお、この神社には軍荼利明王の神像が合祀されていましたので遷座の際、境内に別祠を建て、神社の守護として祀りました。(案内板より)

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神社なのだから、もう少しテラスに植栽くらいしてあげればいいのに、と思いつつ、エレベータで1階に出ます。閉館時間にお参りできるよう分祠が道のそばにあるのですが、鳥居があちこち剥げまくりで、これももう少し大事にしてあげれば、と思うのです。

小笠原藩江戸屋敷は、いまの読売新聞本社の場所(東京都千代田区大手町1-7-1)にあったそうですから、そこから南側にある瘡守稲荷神社であれば、たぶんもとはここではないでしょうか。

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(2019.06.23訪問)

AGF プロフェッショナル プレミアム紅茶一杯用 50本入

赤貧はおかねがないので、毎朝ペットボトルに紅茶を詰めて仕事場に持参しています。

普段は同じAGFのインスタントコーヒー100本入りを買うのですが、今回は思いきって紅茶を買ってみました。ほぼ同じ値段で50本入りですから、1本あたりの金額は倍です。……つまり、1本あたり27円。

だいたいお昼ごろには朝詰めたぶんを飲み終わるので、600mlのペットボトルに水道水をいれて、1本溶かしていただきます。薄いですが、決して味に問題はありません。さすが値段が倍だけのことはあります。

おそらく、規定量通りにつくるとセイロン紅茶らしい渋みも味わえるのでしょうが、いまのところ、まだ規定量でつくったことはないので、その点の評価は保留させてください。しかし、味わいを考えてみると、香りの濃さ以外、ペットボトル入り紅茶と薄い状態で遜色ありませんから、どれだけペットボトル入り紅茶が儲かっているか、わかる気がします。