松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

辛島美登里 下関スペシャル・ライブ

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2日、辛島美登里さんのコンサートに行きました。

いったい何年振りでしょうか。

アンコールで歌っていた「サイレント・イブ」のころは、そこまで興味がなかった気がします。歌のうまいシンガーソングライターがいるなぁ、といった程度でしょうか。
はっきりとすごい歌手だと気づいたのは、いまでも好きな「夏色物語」が出たときでした。1991年ですから平成3年です。赤貧も齢がわかりますね……。

その後NHK-FMの「ミュージックスクエア」に出演しました。毎週木曜日が辛島さんで、金曜日が中島みゆきさんでした。この2日は、この時間ほぼ聴いていたものです。当時はまだカセットテープでしたから、聴けないときにタイマー録音をすると、必ず数秒程度の空白が入ります。これがけっこうもどかしかったものです。

……手元にまだ、むかし所属していた同人誌が残っていて、1994年から1995年にかけて、そこにちょりと書いた評論ぽいものが掲載されています。天沢退二郎さんという著名な詩人・翻訳家のかたが「中島みゆきを求めて」という本を出されて、それの本歌取りのつもりでやろうとしたものです。書きかけで放棄してますから本歌取りどころではなかったのですが。FM放送で毎週触れつつ、自分でもこつこつ評論を書いていたころに、2度ほどコンサートに足を運んだ記憶があります。佐賀県内のどこかと、もう一か所は、熊本市内だったはずです。

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ゴールデンウィーク中、たまたま知人の事務所があるビルの1Fにこのコンサートのポスターが貼ってありました。前から北九州市下関市の文化事業のポスターが貼ってあることがあって、いつもは流し読みしていたのですが、ふと、ひっかかるものがあったのです。

なんか小洒落たビルがあるなぁ、くらいにしか思っていなかったのですが、今回、はじめて「生涯学習プラザ ドリームシップ」なるところに入ってみました。約850席の多目的ホールです。

むかしから赤貧ははじめて行く会場には、開場30分前を目標に向かうようにしています。2回目からは開場開始時間ぎりぎりでもまず間違えることはないのですが、さすがに初回は、どこがどうなっているかもわかりません……。

開演前には、座席がほぼ埋まりました。

デビュー30周年と言っていましたが、赤貧も(おそらく)25年ぶりの生辛島です。辛島さんは赤貧とだいたい10歳違いますから、その年齢だと思えば若いのだけれど、やっぱり齢をとったかな、というのが第一印象(失礼)。

でも、歌に入ると、むかしよりも良いのです。たしかに上の音域は苦しくなってきているのですが、表現力は当時よりもずっと上。よくイメージが伝わります。むかしその曲を聴いた時代に、引き戻されそうになる錯覚すら覚えます。

中島みゆきさんの「糸」をピアノ弾き語りで歌うのを聴いて、やっぱり辛島さんは端正だな、としみじみ思いました。淡々としていながら、明るさとやさしさが伝わってくる。「笑顔をさがして」や「夕映え」も、何度も聴いた曲なのに本人の生歌だとイメージが新鮮に伝わってきます。

ラプソディ・イン・ブルー(の一部)をピアニストと連弾したとき、ちょろっと合っていなかったのはご愛嬌です。本人の言うとおり「この齢になってもなにか挑戦しているところをみて、皆さんも負けないでなにかに挑戦する気になってほしい」という発言以上の雰囲気が伝わってきました。

彼女は永遠のマンネリだと思っていましたけど、そのマンネリを維持するために常に進化しているのです。良かったです。また、どっか近場に来るときは行こうとおもいます。

 

梅酒づくり。

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赤貧の住む三福町天満宮の境内の梅は、今年はアブラムシなどにやられてほとんど収穫がありませんでした。2.7Lのペット容器に、ほんのたったこれだけです。

来年の新年祭で社殿に献酒する梅酒なんて作れるのでしょうか。ちょっとこれでは、と思いますが、かといって市販の梅を買って補充するのも気がひけます。今年は、これにはちみつとウォッカで漬けこむよりほかはなさそうです。こまった……。

久留米市御井町 大学稲荷神社

goo.glすでに何度もこの日記に登場している大学稲荷神社ですが、6月1日に、3か月ぶりにお参りしたので、気づいた点を書き留めておこうと思います。1日は久留米での用事の前後、ほかの神社にもお参りしましたが、一度にぜんぶ書けません。

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1日ということもあってか、月参りのかたが複数おられました。少し間をおいて、あらかたお客さんが去ったところで、神社と社務所の全景を撮影してみました。じつは近づきすぎると、拝殿の中でお願いをされている皆さんが写ってしまうのです。

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以前から気になるのは、大学「稲荷」神社なのに稲紋をみかけないことです。大学稲荷神社の代表的な御神紋は轡紋(島津が使った○のなかに十の紋)ですが、菊紋、木瓜紋鷹の羽紋、五七桐、三つ巴、割菱紋とありとあらゆる神紋があります。

ほんとうにここはお稲荷さんなのでしょうか?

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山内のご案内 - 筑後国一の宮 高良大社:公式ウエブ

筑前筑後稲荷十社の筆頭といわれ、明和8年(1771)、京都の伏見から勧請されました。
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と、公式ホームページには短く触れられているにすぎませんが、どうも謎を感じます。

今回もお守りをいただき、神棚にお供えする御神塩と御神米をわけていただきました。さすがにほかの参拝者の手前、徘徊するわけにもいかず帰宅しましたが、次はじっくりと考えてみようと思います。

 

 

うきは市の隈上正八幡宮と賀茂神社(2・終)

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浮羽町部の中心地には、たくさんの古墳が現存しています。生葉郡という名前でふるくから文献に残っている地域であり、古墳に祀られるような豪族も多数いたのでしょう。

古墳の頂上には正八幡宮が管理しているとおぼしき石祠が3つ並べられていました。そこから一段下がったところに、なぜかブランコの残骸があります。史跡として認定されるまでは、近所の遊び場でもあったのでしょう。この重定古墳の一部は、神道を信仰される個人の奥津城となっていて、赤貧は最初そちらの階段をうっかりあがっていってしまいました。

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法正寺古墳は、うきは市役所の公用車駐車場裏手にありました。石室をのぞくことができます。古墳のなかはこうなっているのだとよくわかり、なかなか面白い場所です。

ここで、図書館の駐車場から車を出し、次の目的地である賀茂神社に向かいました。

賀茂神社はむかし一度訪ねた記憶はありますが、まず来るところではありませんので、カーナビが頼りです。いったん県道沿いの賀茂神社に到着したのですが、車をどこに停めてよいかわかりません。ずいぶんうろつき、たまたま停めさせていただける土地があったので、お断りをいれて、徒歩で神社に向かいます。

よく赤貧に「電車とかバスじゃお金かかるでしょう?」と質問されるかたが居ますが、初めてのところに車で来ることのいちばんの問題は、駐車場なのです。先日の大善寺のときでも、今回の旧浮羽町山北地区でもそうですが、停めさせてもらえるところがあれば問題ありません。ところが、路駐やむなしみたいなところも意外と多いのです。googleマップである程度下調べはしますが、なかなか現地に行かないと、このあたりの融通がきくかどうかは、わかりません……。

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立派な神門をくぐると、賀茂宮の扁額がある鳥居があります。御神橋のしたには水が流れています。

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賀茂宮らしく御神紋は葵の紋です。その背後に、方位盤が飾られていいます。こちらは、実際に磁石が使われているようです。iPhoneのGPSと、同じ方位を示していました。

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下がって前方からの全景を撮影し、背後にまわって社殿を撮影します。外削ぎの千木も、社殿と拝殿の配置も見事です。

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神社境内のはずれで隈上川から取水した水は、境内の水路を流れていきます。水がよいのか、流れが清浄でこころ洗われます。

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神社の由来によれば「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあります。これが書かれたのが1651年です。宇佐神宮の九州宗廟としての地位はとうのむかしに確立していました。その点からくる粉飾をさしひいても、いまは京都の上加茂神社・下鴨神社に祀られている賀茂大神は、ほんとうにこの旧浮羽町山北が根拠地だったのかもしれません。

賀茂神社社家の初代は、武内宿禰の子孫、波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州とされています。ここにも武内宿禰と波多氏がかかわっていました。当時どれだけの実力者だったのでしょうか?