旧浮羽町部の中心地には、たくさんの古墳が現存しています。生葉郡という名前でふるくから文献に残っている地域であり、古墳に祀られるような豪族も多数いたのでしょう。
古墳の頂上には正八幡宮が管理しているとおぼしき石祠が3つ並べられていました。そこから一段下がったところに、なぜかブランコの残骸があります。史跡として認定されるまでは、近所の遊び場でもあったのでしょう。この重定古墳の一部は、神道を信仰される個人の奥津城となっていて、赤貧は最初そちらの階段をうっかりあがっていってしまいました。
法正寺古墳は、うきは市役所の公用車駐車場裏手にありました。石室をのぞくことができます。古墳のなかはこうなっているのだとよくわかり、なかなか面白い場所です。
ここで、図書館の駐車場から車を出し、次の目的地である賀茂神社に向かいました。
賀茂神社はむかし一度訪ねた記憶はありますが、まず来るところではありませんので、カーナビが頼りです。いったん県道沿いの賀茂神社に到着したのですが、車をどこに停めてよいかわかりません。ずいぶんうろつき、たまたま停めさせていただける土地があったので、お断りをいれて、徒歩で神社に向かいます。
よく赤貧に「電車とかバスじゃお金かかるでしょう?」と質問されるかたが居ますが、初めてのところに車で来ることのいちばんの問題は、駐車場なのです。先日の大善寺のときでも、今回の旧浮羽町山北地区でもそうですが、停めさせてもらえるところがあれば問題ありません。ところが、路駐やむなしみたいなところも意外と多いのです。googleマップである程度下調べはしますが、なかなか現地に行かないと、このあたりの融通がきくかどうかは、わかりません……。
立派な神門をくぐると、賀茂宮の扁額がある鳥居があります。御神橋のしたには水が流れています。
賀茂宮らしく御神紋は葵の紋です。その背後に、方位盤が飾られていいます。こちらは、実際に磁石が使われているようです。iPhoneのGPSと、同じ方位を示していました。
下がって前方からの全景を撮影し、背後にまわって社殿を撮影します。外削ぎの千木も、社殿と拝殿の配置も見事です。
神社境内のはずれで隈上川から取水した水は、境内の水路を流れていきます。水がよいのか、流れが清浄でこころ洗われます。
神社の由来によれば「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあります。これが書かれたのが1651年です。宇佐神宮の九州宗廟としての地位はとうのむかしに確立していました。その点からくる粉飾をさしひいても、いまは京都の上加茂神社・下鴨神社に祀られている賀茂大神は、ほんとうにこの旧浮羽町山北が根拠地だったのかもしれません。
賀茂神社社家の初代は、武内宿禰の子孫、波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州とされています。ここにも武内宿禰と波多氏がかかわっていました。当時どれだけの実力者だったのでしょうか?