松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県三養基郡みやき町簑原 中原祇園神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03)


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鳥居の扁額は「祇園宮」です。

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みやき町長崎街道ものがたり

「東の木戸口と祇園社」

この祇園社周辺は、長崎街道中原宿の東側の出入口付近にあたりますが、その当時の風景を偲ばせる資料の一つとして、大田南畝の「小春紀行」があります。大田南畝は、文化元年(一八〇四)に長崎奉行下役として奉行とともに長崎に下り、文化二年(一八〇五)十月十日に長崎を出立して江戸に帰っています。その帰路の紀行が「小春紀行」です。
その紀行文の一部を紹介します。
「(中略)左に祇園の社あり、木戸を出て砂川をわたりて松林をゆく、左に石ありて自是東養父郡自是西三根郡と志るせり。」
この資料から、由緒の判明していない祇園社が少なくともこの時には存在していたことや、祇園社の近くに宿の出入口としての木戸が設けられていたこと、山の内川を渡ると松林があり、現在の国道34号線に合流するあたりに三根郡と養父郡の郡境を示す石柱があったことなどがわかります。また、尾張商人吉田重房(菱屋平七)も「筑紫紀行」に、
「(中略)・・・出口に小川あり価値よりわたる。少し坂を登りて四五丁行バ東ハ養父郡西ハ三根郡といふ境のしるしあり、此あたり小松原中の山道なり。」と記しています。
他に当時を偲ばせるものとして、山の内川を渡って少し登ったところに三叉路があり、その入口に二対の灯ろうが建てられています。そこは白石神社参道の入口となっていて、中原宿が白石鍋島家の管轄下にあったことを示す一例といえます。
また祇園社の西脇に小さな水路が流れています。これは「中原水道」と呼ばれ、江戸時代初期に治水・利水の神様ともいわれた鍋島藩家臣成富兵庫茂安公が寒水川の東側の田畑と中原宿のために造った用水路です。町並みとしての中原宿は、残念なことに明治十八年(一八八五)八月十四日の大火で大部分が焼失してしまいました。全八十戸中七十四戸を呑み込んだ大火災だったようです。

1885年(明治18年)に、町のほとんどを焼く大火事があり、祇園社についての記録も失われているため、由緒は不明です。

境内入って右手は、仏さま。

左手はいずれも天満宮です。

そして社殿正面向かって左脇に「三養基新四国77番霊場」があります。

むろん、焼失前の社殿がどうであったか知る由もないのですが、屋根のない渡りに本殿に4本柱、これは各地の玉垂宮や、久留米・筑後方面の神社に通ずるつくりです。

このみやき町蓑原というところは、久留米・筑後文化圏に属するのでしょうか?

(2023.02.11訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月11日の日録 - 美風庵だより