過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.25)
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大日如来を祀るお堂ですが、神仏習合の名残りか、鳥居があります。
木造大日如来坐像
この大日堂の本尊である木造大日如来坐像は、総高130.5cm、像高80.8cmをはかる檜の寄木造です。肉身部と衣は前面だけ漆箔を施し、背面は漆仕上げとしています。衣文は浅い線で、全面に表されています。仏像の頭から体部を一材で造る大胆・素朴な構造と技法は、この作者が地元の仏師であったことをうかがわせます。
脇山の地は、鎌倉時代から脊振山上宮東門寺の別院跡と密接な関係があり、この仏像については、天文7年(1538)に脇山・内野・小笠木の有力農民層、脊振山東門寺とその僧侶たち、大内氏に仕えた早良郡代などが、現世の無事と極楽往生を願って造ったものであることが、江戸時代の地誌類に紹介されています。
この仏像は、室町時代後期この地で造られ、政治・経済・信仰を結びつける役割を担った重要な文化財です。
1999年3月福岡市教育委員会
「密接な関連」もなにも、資料によっては別院跡としているものがあります。
伝教大師最澄は、延暦24年(805)、唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台派寺院たる背振山東門寺を開基いたしました。そして、これを比叡山延暦寺に移した時に、その守護神として、ここの山王神猿田彦命を勧請して彼の地に日枝神社を創建したと言う伝説が残っております。
ここから車で20分ほどの那珂川市市ノ瀬の日吉神社には、背振山上宮東門寺は、最澄が唐から帰国して最初に創建した寺であり、のちに比叡山延暦寺を創建するさい、山王権現としてこの地の猿田彦大神を勧請したという伝承があります。
どれほど由緒ただしい場所であるかが、このことからも推測できます。
ただ、そうは言っても数百年経過して、あくまでも地域の祭祀として残っているだけですから、往時の繁栄は想像するしかありません。いたってふつうの神社です。
拝殿内のつくりも、お堂というよりかはあきらかに神社です。
境内には、木製の仏さまが安置されたお堂や、岩を彫ってつくった祠があります。ひとつは文殊菩薩だとわかりましたが、ほかはなんの仏像かまではわかりませんでした。
池のなかに灯籠が立っています。見回して手水舎やそのたぐいはないため、もしかするとここで手を清めよ、ということだったのかもしれません。
池田大日堂と池田城跡(福岡市早良区) - 早良風土記| 歴史 郷土史 地域史
ここは「大教坊」という山伏が拠点としていたことがあり、その墓もあったようです。じつは訪問当日、まったく気づかず下山してしまいました。
機会があれば、再訪して探したいとおもいます。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.04.01訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。