松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2023年2月11日の日録

もうそろそろ「自己虐待」の域なのではないか?

2023年02月08日 08時25分  
県漁連は7日、いわき市沖で水揚げされたスズキから、自主基準値(1キロ当たり50ベクレル)を超える1キロ当たり85.5ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。安全が確認できるまで出荷をやめ、流通を全面的に停止する。同日に水揚げされたスズキも全量回収した。 

基準値超スズキ出荷停止 県漁連、いわき沖で水揚げの個体:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet

この記事、まずいです。

おとしめたいひとたちの手にかかれば、安全性アピールのための発表なのに風評被害を招いてしまいます。

環境省_食品中の放射性物質に関する指標

環境省_放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(令和3年度版) 目次

そもそも論として、日本国の指標はケタ違いの安全性をもとめています。

県漁連としてそれ以上に厳しい基準をもうけて、安全性アピールしたいのはわかりますが、国際基準と比較しての記述がないため「まだそんなに危ないのか!」というイメージだけが先行してしまうおそれがあります。県漁連は「国際基準の20倍きびしい指標をもうけていることを明記してくれ」と、この書きかたでは逆に風評被害を招く懸念があることを表明するべきだし、いっそのこと自己虐待基準をやめて日本国の基準どおりに出荷体制を見直すべきではないかとおもうのです。

米国よりもEUよりも国連の委員会(CODEX)よりも厳しい基準で放射線被害にのぞむのはけっこうですが、いったいいつまでやるつもりか、という気がします。ほんと、日本人は「~道」と名付けた自己虐待が大好きですが、こういうところまでその精神を発揮しなくてもよいのです。

そして、20倍厳しい独自基準という視点をいれずに報道するマスゴミっぷりも、最低です。この福島民友という新聞社、福島県民が購読対象者なのに、福島の県漁連に迷惑がかかるような記事の書きかたをしてどうするんでしょうか。経営層が県漁連と仲わるいのかな……。

 

今日の運動経路

今日(11日)は祝日ですが日銭稼ぎでした。

待ち合わせ2時間前に現地入りして「神社めぐり」をします。

JR長崎本線中原駅に到着しました。

歩いていて妙な座標が気になります。よくみるとJRとの境界標です。矢印の向きにご注目ください。なんとこれ、道がJRの敷地に食い込んでいます。こういうことってあるんですね……。固定資産税とか市道認定とかどうなってるんでしょうね。

やはり古くからある集落はちがいます。各戸にある屋敷神の祠が、ちょっとしたお堂サイズです。線路の陸橋からみえたお堂に、さっそく立ち寄らせてもらいました。

昨晩、地図で発見していたお宮に行こうとすると、ちょうど道路の舗装工事で通行止めでした。通行止めの係員のかたの話ではけっこう遠回りになるようなので、次回にまわすことにしました。

通行止め現場すぐにこれまた立派な観音堂を発見し、撮影しました。

この辺りが、長崎街道中原宿の入口にあたります。

みやき町長崎街道ものがたり

「中原宿」

中原宿の始まりははっきりとわかっていませんが、正保三年(一六四六)に幕府に提出された「正保絵図」には宿を示す記号があることから、このころには宿として成立していたと見られます。また、元禄一四年(一七〇一)に幕府に提出された「元禄絵図」には中原村の記述と宿を示す記号があります。中原村は鍋島藩の親類筆頭格にあたる白石鍋島家の知行地となっており、中原宿は長崎街道の本宿(公的な宿)でしたが、鳥栖の轟宿と神埼の神埼宿の間の宿であったため、規模は小さかったようです。
中原宿には6軒の旅籠があり、道の北側には東から泉屋・長崎屋・桜屋が、南側には東から松阪屋・大坂屋・岡崎屋が有りました。看板の左手にある岡崎屋の2階の手すりには「中原驛岡崎屋御定宿」の透かし彫りの看板が残されています。
中原宿に宿泊した著名人には、洋画家の司馬江漢(天明八年(一七八八))、幕府測量方の伊能忠敬(文明九年(一八二)、思想家の吉田松陰(嘉永三年(一八五〇))がいます。
オランダ商館の医師シーボルトは中原宿について「われわれが休んだ中原の村で、私は生垣がみんなムメサキウツギなのを見た。おそらく日本で最も美しい潅木のひとつであろう。」と記しています。現在、ウツギの木は祇園社の前に植えられています。
このほかにも江戸と長崎を往復したときのことを旅行記に残している人は多く、その日記を読むと当時の日本の風景が伝わってきます。

中原祇園神社です。

みやき町長崎街道ものがたり

「東の木戸口と祇園社」

この祇園社周辺は、長崎街道中原宿の東側の出入口付近にあたりますが、その当時の風景を偲ばせる資料の一つとして、大田南畝の「小春紀行」があります。大田南畝は、文化元年(一八〇四)に長崎奉行下役として奉行とともに長崎に下り、文化二年(一八〇五)十月十日に長崎を出立して江戸に帰っています。その帰路の紀行が「小春紀行」です。
その紀行文の一部を紹介します。
「(中略)左に祇園の社あり、木戸を出て砂川をわたりて松林をゆく、左に石ありて自是東養父郡自是西三根郡と志るせり。」
この資料から、由緒の判明していない祇園社が少なくともこの時には存在していたことや、祇園社の近くに宿の出入口としての木戸が設けられていたこと、山の内川を渡ると松林があり、現在の国道34号線に合流するあたりに三根郡と養父郡の郡境を示す石柱があったことなどがわかります。また、尾張商人吉田重房(菱屋平七)も「筑紫紀行」に、
「(中略)・・・出口に小川あり価値よりわたる。少し坂を登りて四五丁行バ東ハ養父郡西ハ三根郡といふ境のしるしあり、此あたり小松原中の山道なり。」と記しています。
他に当時を偲ばせるものとして、山の内川を渡って少し登ったところに三叉路があり、その入口に二対の灯ろうが建てられています。そこは白石神社参道の入口となっていて、中原宿が白石鍋島家の管轄下にあったことを示す一例といえます。
また祇園社の西脇に小さな水路が流れています。これは「中原水道」と呼ばれ、江戸時代初期に治水・利水の神様ともいわれた鍋島藩家臣成富兵庫茂安公が寒水川の東側の田畑と中原宿のために造った用水路です。町並みとしての中原宿は、残念なことに明治十八年(一八八五)八月十四日の大火で大部分が焼失してしまいました。全八十戸中七十四戸を呑み込んだ大火災だったようです。

祇園神社の入口にある案内板をみるかぎり、どうやらこの祇園社は由緒不明のようです。

さきほどの案内板では、中原宿はこの辺りまでだったようです。

パンジーで「世界平和」です。

予定地に集合予定時刻20分前に到着しましたが、まだ誰もいないので、近くのもう1社を訪問します。

寒水祇園神社です。

約3km、1時間ほどの運動でした。

「やあっぱり、お~れ~はぁ~」

youtu.be

♪美味いものはさがさなければならない。

♪美味い酒はえらばなければならない。

♪やあっぱり、お~れはぁーきくまあさ、むうねー

なつかしいですね。こどものころ「あなごというものはとても旨いものらしい」「えらばれるほど美味い酒とはどんなものなのか」と興味をもったCMでございます。

まだ、手元に「キンパック」「ギンパック」がのこっていますが、佐賀からの帰りみち、あんくるふじや(地元の酒販チェーン)にて菊正宗の紙パック2種類購入してきました。

しぼりたてギンリッチ 1.8Lパック詰 - 菊正宗酒造~辛口ひとすじ~

本醸造パック 1.8L|菊正宗酒造~辛口ひとすじ~

ふだんは水をお供えしている江戸切子のグラスに注いで、神棚にお供えしたあと、さっそくコップ一杯ずつ、試飲してみます。

ギンリッチは原酒率が高いのか、黄色めです。醸造アルコール添加なので純米キンパックよりも酸味がおさえられ、それでいて濃厚感はそのまま。たしかに「リッチ」です。こんな贅沢なお味で、1.8Lのパック酒が1,400円しないんだから、異常というかすごいというか。

本醸造のほうは、CMでみてから憧れて、穴子は手にはいりませんでしたが、なにかの魚を煮つけて食って「うーん。(^▽^)うめー。さいこーだじぇー」とおもって以来の懐かしい味がします。本醸造とは、お米の外側を3割削ってつくったお酒に10%、度数30%の甲類焼酎を加えて香味を調整したものです。はやい話、うすめることで味わいを淡麗辛口に仕上げることができます。

私が若いころ、下手くそがつくった純米酒はくさいし重いし酸味がつよくて飲めたもんじゃありませんでした。そういうこともあって、こういうアルコール添加のお酒がもてはやされた時代があったのです。

そしてこちらのほうが重要だったのですが、大手メーカーは、地方の酒蔵がつくる酒を「桶買い」していました。

酒税は「出荷時課税」なので、自社銘柄のラベルを貼って瓶詰めして出荷したら、酒税を払わないといけません。これが、大手メーカーの受託生産(OEM)のかたちをとると、(ラベル貼って出荷するのは大手メーカーのため)大手メーカーが買ってくれたぶんぜんぶが収入になります。

地酒ブーム到来前は「(大手メーカー)が言い値で買ってくれる」「来年からの取引量を増やしたいと申し込まれた」というのが、地方の酒蔵の権威だった時代があります。少なくとも儲かっている酒蔵は、「大手メーカーが認める技術力」を誇示し「うちの杜氏さんはすばらしい(=儲けさせてくれる)」と言いふらしてあるいていました。

そうやって地方の酒蔵からかき集めた酒の質はさまざまですから、香味調整の切り札としてアルコール添加が行われていました。アル添技術がすごいのは「KEN菱」か「KIKU正」かと言われた時代がながくつづきます。

つまり、消費者からみると「名ばかり純米」の苦い、くどい、重い、くさい純米酒を呑むよりかは、アル添でも淡麗辛口がよく、つくる側からみると、質の均準化の切り札としてアル添+糖類添加が当たり前に行われていたわけです。或る意味、WIN-WINが成立していた時代ともいえます。

これがぶっ壊れていくのが、ちょうど私が大学を卒業したころに到来した地酒ブームでしょうか。まぁ、また機会があればなにか書くかもしれません。