松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区蜷田若園1丁目 白髭神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.07.28)


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 北九州市小倉南区下石田1丁目 六社大神社(六社神社) - 美風庵だより

さきに訪問した六社神社は、小倉市誌によれば御祭神6柱のうち半分は、猿田彦が亡くなるときに生まれた神でした。徒歩10分もかからず、合わせ技でかんがえるとここがほんとうの猿田彦の死没地ではないか(もしくは、猿田彦の直系がここに住んでいたのではないか)とかんがえざるをえない神社があります。

祭神
猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)
天鈿女命(アメノウズメノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
太玉命(フトダマノミコト)
太田命(オオタノミコト)

当神社に祀られる猿田彦大神は、分かれ道に「庚申塚」などとしても祀られ古くから道案内の神として民間信仰の対象とされてきました。猿田彦大神は日本神話に出現される重要な神様で天孫邇邇藝命(ニニギノミコト)を高天原より日向国高千穂の峰に導かれた神様です。お役目を無事に終えられた後、猿田彦大神は天鈿女命と共にご自分たちが安まる宮殿を天鳥船(アメノトリフネ)に乗り、捜し求め「この丘は朝日の直射す、夕日の日照らす丘なり」と現在神社の建つ丘に暫くご休息になりました。大神達はその後、伊勢の五十鈴の川上に鎮まりましたが、里人は大神達が立ち寄られたこの丘を神聖な地と崇め、天児屋根命、太玉命を合わせ祀って白鬚大神と称え、社殿を造り産土神(ウブスナノカミ)としました。昭和61年に蜷田自治会の共有財産を基金にして社殿、末社、手水舎、社務所全てがご改築され現在も朝日、夕日の照らす丘に蜷田・若園の氏子・崇敬者の方々により大切に守り継がれています。

白鬚神社のご神徳 
交通安全の神 導きの神
病気平癒の神 長寿の神

菅原道真公が太宰府に下向される途中、当社に参詣され御身の守護を祈願されており、古い時代より「導きの神」「交通安全の神」としてのご利益はもとより、小倉藩主小笠原候のご信仰が厚く、ご寄進ご代拝があり特に流行り病「痘瘡」が軽くて済むように「病気平癒の神」としてのご利益が顕著で、月づきに祈祷が行われ、お守り、お札を城内に納めたと言う古記録が残されています。また、白鬚と呼ばれるごとく延命長寿を祈願されるようになりました。

福岡県神社誌の「由緒」には、むかしこの地には湊(港)があり、干拓後は「湊田」と呼ばれていたものが、なまって「蜷田(になた)」となったとあります。

神社を出て数分ほど歩いたところに、池があります。

お御手洗と比良夫貝

古くから湧き水が自然に溜まった神池で「お御手洗(おみたらい)」と呼ばれ、以前は「比良夫貝」と言う二枚貝が生息しておりました。日本神話によりますと猿田彦大神は比良夫貝に手を挟まれて水中に引き込まれ没したと伝えられています
この地が猿田彦大神といかにゆかりの深いかを物語っています。
残念ながら現在は環境の変化で生息していません。

一般的には伊勢で漁をしていて化け物の貝に海中に引きずり込まれて没したと理解されており、本居宣長はタイラギではないか?としました。福岡県神社誌をよく読むと、注記部分にむかしは港だったとあります。

いまの姿からは想像も出来ませんが、ここがほんとうに猿田彦(山幸彦)が亡くなった場所だったとかんがえることもできそうです。

石段を登ってすぐ社殿があります。

社殿は元郷社というだけあって、じつに立派なものです。

三つ巴紋のうずまきがつよめなのは、御祭神が引きずり込まれて死んだことと関係するのでしょうか。それとも、ともに祀られる天太玉神こと海神 豊玉彦(またの名をヤタガラス、思兼命、豊前坊天狗……)に由来するものでしょうか?

由緒のかかれた石碑(ざんねんですがOCRで文字起こしできませんでした)にも、もとは港だった旨の記述があります(おそらく原文は福岡県神社誌や小倉市誌と同じ資料でしょう)。

八神殿(はっしんでん)は、天皇守護の8神を祀る神殿
古代から中世の間には神祇官西院に、その宮中八神殿が衰退したのち江戸時代には吉田神社境内・白川家邸内にそれぞれ設けられた。現在は皇居の神殿(宮中三殿の1つ)に合祀されている。 

八神殿 - Wikipedia

境内には八社神社があります。菅公の守護のため祀られた神社であるとのこと。八社神社という社号のため気づきにくいのですが、これ、八神殿です。

太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。

菅原道真 - Wikipedia

菅公の悲惨な末期をかんがえると、天皇の守護のために宮中に祀られていた八神殿を勧請されたともかんがえにくく、菅公の聖蹟地に、のちに朝廷が「祭り上げる(祀り上げる)」ために設置したとかんがえるべきかもしれません。

福岡県神社誌:下巻134頁
[社名(御祭神)]白髭神社(児屋根命、宇受女命、猿田彦神、太田命、太玉命、罔象女神、波邇夜須比売神、天之御中主大神)
[社格]郷社
[住所]小倉市大字蜷田字宮山
[由緒](略)
[境内社(御祭神)]八社神社(高皇産霊神、神皇産霊神、生産日神、足産日神、魂留産霊神、大宮乃売神、事代主神、御膳都神)延喜年中菅原道真筑紫左遷の時守護のため勧請せらる
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.06訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月6日の日録 - 美風庵だより