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旧「美風庵だより」です。

北九州市八幡西区東浜町 御崎神社(妙見神社)


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福岡県神社誌では「御崎神社」となっていますが、現地は「妙見神社」です。

社号妙見と云へるを後御崎神社と改称す。
又社説に曰く、筑前国続風土記に「黒崎の城山の東に小山有妙見山と云西の麓に妙見の社あり」
黒崎城山の東妙見山の中腹に在り、往時は山頂に鎮座せりと云ふ。

由緒のこのあたりから、一時期御崎神社と名乗り、妙見神社にもどったのだろうと推測できます。

束石の場所や基礎の割れ具合から、むかしは拝殿や渡りもあったことがうかがえます。

本殿の柱はくさって風で揺れ、御神体が収められた箱(厨子の代わり?)だけがなんとか安置されています。

妙見神社というと天之御中主を御祭神とするところが多いのですが、ここは国常立命と和気清麻呂公ということになっています。足立山妙見宮や御祖神社をはじめ、宇佐八幡とのからみで皇室の隆盛を北辰妙見に和気清麻呂公が祈願したことに由来する神社が多く、その観点から御祭神が定められたのでしょう。

敢えて箱のなかを拝謁することはしませんでした。

福岡県神社誌:下巻348頁
[社名(御祭神)]御崎神社(国常立命、和気清磨朝臣)
[社格]無格社
[住所]八幡市大字藤田字妙見
[由緒]不詳、此社古は尾倉村字御供田と云ふ所に鎮座せり、八幡宮にゆかりある社なり、慶長の初年大宮司波多野掃部大夫善御神体を頂き奉り此地に遷す、故に尾倉村の妙見を古妙見と云ふ。当社は山の頂に有りしを万治年中山の麓今の地に移す。元文年中当村潮干潟開墾の時多く此の山の石を取用ひられたるに依て、神恩報賽の為に従前は郡代役所より社殿造立せり。社号妙見と云へるを後御崎神社と改称す。
又社説に曰く、筑前国続風土記に「黒崎の城山の東に小山有妙見山と云西の麓に妙見の社あり」
黒崎城山の東妙見山の中腹に在り、往時は山頂に鎮座せりと云ふ。此社多賀神と同体なり、往昔神功皇后三韓征伐の時大渡川より入らせ給ひ、此の山を見そなはして曰く「異人の国を平げ夫君の仇を報はん事故なく平け帰りしかば多賀の神を祭らむ」誓ひ給ひて凱旋の帰路此の地に報賽の祭をなし給ふ。花尾城主麻生重業運命を祈奉りて守護神と為し給ふ。其の後井上周防黒崎在住の時も守護神として祭礼いかめしかりしと、当社は黒崎鬼門御守護御社として、御社地は山聳え松茂て麓は洞海の潮満干あり、通行の船舶悉く神威を恐みて帆を下す、都て社山の石悉く六角なり、山の絶頂に柱石亦様々の奇石あり、元文の頃御開地御普請第一の大益なりとて御上より御用に立てんと有けるに、皆石非常の石形なれは石工人夫等神威を恐れし故御郡より末代永々当社造営を誓ひて神闔を伺ひ御開作速に成就す。其の安永九年御造営、御郡奉行味岡團右衛門殿文化三年御造営、御奉行、坂田新五郎殿。天保十三年御造営、郡代、野田惣蔵殿。元治元年御造営、郡奉行肥塚次郎衛門郡代、明石半十郎殿。黒崎中御神幸あり山笠角力等賑々しく、特に藤田船町田町祭礼盛なり。筑前国続風土記拾遺に「妙見社元文年中御開地神山の石を多く取りし報賽とて今に至りて社の造営を郡中より沙汰する事有云々」。社号を明治初年より御崎神社と改む。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.01.23訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年1月23日の日録 - 美風庵だより