松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

古賀市薦野 天降神社


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二の鳥居と三の鳥居のあいだに県道が横切っており、一の鳥居と二の鳥居がある場所は、駐車場としてつかわれています。

「天降宮」と扁額にあります。πを2つ並べたような文字がふるい「天」の字体とおもいもよらず、神社めぐりをはじめた最初のころは、驚いたものです。

拝殿正面です。

当日、境内でゲートボール?グラウンドゴルフ?が行われており、iPhoneを構えづらく、画像がすくないことをご了承ください。

拝殿内、絵馬の横に、社号と祭神名をしるした扁額が掲げられています。

古賀市指定文化財

天降神社神殿の彫刻 古賀市薦野1863-1

当神社は、もと古野(現小野公園付近)に鎮座されていたが、火難にあって嘉元3年(1305年鎌倉時代)現在地に移されたと伝えされ、薦野、米多比、舎利蔵の3ヶ村の産土神であった。本殿を飾る木造彫刻は、江戸時代中頃(18世紀前半)の作で、市内随一の見事な彫刻であり、本殿入口の海老紅梁の間の飛天像は、明治維新の廃仏希釈の際、地元住民の配慮で難を免れたものである。
他に地元の豪族、薦野増時の後裔、立花増厚が宝暦7年(1757年江戸時代)に寄進した石灯籠一対がある。

廃仏毀釈の難をのがれた飛天像を、両側から撮影してみました。

龍の彫り物、画像に葉っぱが写りこんでいるほうが、社殿正面向かって左側です。

社殿正面向かって右側に、境内社のお宮が3社並んでいます。画像奥は社殿はなく、台座だけがのこっています。

また、台座のみ残ったお宮の右隣(右側画像中央)は、御神体が3体並べられています。

社殿正面向かって左手、藤棚の奥に、天満宮があります。

ゲートボール?グラウンドゴルフ?中のかたが写りこむため画像撮影できませんでしたが、境内のなかにこれらとは別に大山祗神社がありました。

すると、正面向かって右側にならんだ5柱の神様が、須賀社、貴布禰社、福智社、西宮社、そして濬源神社ということになります。

https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/source/bunka/No44%EF%BD%9E%E3%81%9D%E3%81%AE1%E3%83%BB%E3%81%9D%E3%81%AE2%EF%BD%9E.pdf

(448) 臼ヶ岳城 | 福岡県の城

『福岡県の城』には、築城者は丹治式部少輔峯延。丹治峯延はのちに薦野(こもの)氏を称す。立花山城の支城。土塁、堀が残ると紹介されています。大変素晴らしい城址でした。

右手に並ぶお宮のいずれかが濬源神社で、この地を統治した薦野氏の先祖を祀っていることになります。さすがにどれかまでは、わかりませんでした。 

福岡県神社誌:上巻124頁
[社名(御祭神)]天降神社(大己貴命、少彦名命、素盞嗚尊)
[社格]村社
[住所]糟屋郡小野村大字薦野字宮林
[由緒]創立或書に神亀元年の由見え、又嘉元三年の古文書の天降天神三所宮出見云々と、造立宝殿(此間不明)於薦野村号天降天神三所宮云々とあり、此の社丹治家の元祖丹治峯延より累世厚く崇奉ありて古は年中祭典料として田地数多寄附せらる、且祭式の厳重なる事其の書に、一神頭出仕之次第両山両代官は拝殿大宮司職掌は神殿同神人は大庭に荒薦也、五節供は両代官は大口直垂也云々。右大要不可略之事如何両代官とはウスカ嶽両域なる由。嘉元三年火難ありて古野より今の社地へ移し此の以降の書類多し、丹治峯延は延長頃の人にして千年近き年数を経たれば其頃より繁栄の神社ならむ。明治五年十一月三日村社に定めらる。
[境内社(御祭神)]菅原神社(菅原神)、西宮神社(事代主命)、須賀神社(禍津日神、素盞嗚尊荒魂)、貴布禰神社(高龗神、倉龗神)、福智神社(保食神)、大山祇神社(大山祇神)
[摂社(御祭神)]濬源神社(丹治式部少輔峯延命)
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.12訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月12日の日録 - 美風庵だより