松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

古賀市美明1丁目 皇石神社(皇石宮)


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立派な社号標があります。御神紋は五七桐紋のようです。

社号標の隣には荒波神社があります。福岡県神社誌にある稲荷神社がこれのことでしょうか?

皇石神社

祭神は埴安神 古く享禄三(一五三〇)年の神殿再建の棟札によれば 大石大明神とよばれている 神体は平たく巨大な立石である
神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱え起して立てることができる」と うけひ をされたという 文政三(一八二〇)年には社名も皇石に変っている
明治三十一年旧暦元旦 神殿後方の合せ口甕より銅剣・銅戈が発見され 弥生時代の貴重な甕棺墓遺跡として 春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった 昭和四十七年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増した
いま 祭祀の由来を考えるに 遠く日本原始国家形成期における有力者の奥津城の祭祀に創まるものであり 神体石は支石墓とよばれる 当時の墓制であったとみられる
なお 社地に接した鹿部山は もと三つの峰から成っていたが その南麓には数多の古墳群が散在し 中の峰の嶺きからは 永久元(一一一三)年の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和四十六年に出土している
即ち 鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り連綿として続いてきた聖域で 本社はその中心の槙の巨木群におおわれた森厳な霊地に 永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斉き祀られてきた真に由緒ある宮どころである 

今昔マップで戦前の地形を確認してみます。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

神社がある山以外すべて宅地となり、周囲は完全に削り取られてしまっています。

しょうじき、このあたりの地形や開発の歴史はまったく知りません。これほど大々的に削りまくって宅地開発が行われていたとは、おもいもしませんでした。

参道の石段を登る途中に、今宮神社がありました。

皇石神社の社殿です。

本殿の覆屋と渡り、拝殿が一体となっており、厳重に装甲した倉庫のようです。

画像左が須賀神社、右が浦口神社です。浦口神社は、福岡県神社誌には記載がありません。戦後、勧請されたもののようです。この浦口神社というのは現在の古賀神社の場所に在った神社で、後日紹介します。

貴布祢神社は、淤加美神を祀るとされていますが、御神体とおぼしき石が4つあります。複数の貴船社をまとめたものでしょうか? 


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皇石神社から徒歩数分のところ、というより、宅地開発が進行しすぎて境界がわからなくなっていますが、神社ふもとの集落内に「沖の井戸」があります。神功皇后がもちいた井戸という言い伝えがあるそうです。

それにしても、神功皇后伝承がこれほど残っていながら、あくまでも祭神は埴安命(はにやす)です。つまり神皇産霊神であり大幡主(博多のお櫛田さん)というわけで、どの時点で両者が混濁したか(祭神が上書きされたか)、調べてみる必要がありそうです。

福岡県神社誌:上巻120頁
[社名(御祭神)]皇石神社(埴安神)
[社格]村社
[住所]糟屋郡古賀町大字鹿部字菴園
[由緒]不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説に曰く当社は古社なりしが境内より古器物を発見せり、尚当社には沖の井とて御供井ありて、往古は九月一日浚渫し新嘗祭の御饌水に使用せりと云ふ。
[境内社(御祭神)]今宮神社(保食神)、須賀神社(素戔嗚神)、稲荷神社(保食神)、貴布禰神社(高龗神、闇龗神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.09.11訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

9月11日の日録 - 美風庵だより