松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

神奈川県川崎市川崎区四谷上町 義田稲荷神社


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体裁はお稲荷さんなので、御祭神も保食神か倉稲魂命か豊受大神かと思いきや……

御祭神 大己貴命 素戔嗚尊

義田稲荷神社は、宝暦十三年二月(一七六三)後桜町天皇の御代に創建されたものと云われています。
当時の戸数は僅か三〇戸たらずの僻村であり、その石高は七三〇石と伝えられています。
武蔵国橘樹郡七稲荷新田村四ツ谷義田耕地
現在の四谷上町十九番地五~十号に村民相寄り祭られたと云われ毎年春秋二回郷土の産物・五穀豊穣・村内の平和を祈願し例祭が執り行われています。
まさに、四谷住民の守護神として崇敬の的でした。
しかし、太平洋戦争末期(昭和二〇年四月十五日)B二九の大空襲により、町内大部分及び神社本殿も焼失しました。
昭和二七年、町内有志の方々による努力と町民の協力によって現在地(四谷上町二三番地二〇号)に再建され、昭和二八年八月に、独立した宗教法人義田稲荷神社として県庁より認証されました。四谷町内会・義田稲荷神社

ここ、大己貴命とスサノオさんが御祭神です。

境内には、若者が力比べにつかった力石が残っていました。

義田について辞書をひくと、救荒のためにつくられる共有田のこととあります。

池上幸豊 - Wikipedia

池上 幸豊(いけがみ ゆきとよ、1718年(享保3年)- 1798年3月31日(寛政10年2月15日))は、江戸時代中期の豪農。太郎左衛門(たろうざえもん)の通称で知られている。
(略)
近世初頭、曽祖父にあたる幸広(ゆきひろ)の代に武蔵国橘樹郡大師河原村に移住して代々名主を務めたという。
(略)
寛延3年(1750年)に江戸幕府に対して多摩川の砂州を埋め立てて新田開発を行い、宝暦11年(1761年)に完成して「池上新田」と称される。同年には氷砂糖の製法を改良して製造の権利を得た。翌年には幕府から新田見立役に任じられ、江戸周辺の新田開発可能地の調査を行った。また、大師河原塩田の経営や氷砂糖製造に必要な甘蔗の栽培、芒硝・絞油の製造、魚の養殖など様々な事業を起こして農村の振興に努めた。

江戸時代中期の名主であった池上幸豊の提唱で義田が設けられ、その鎮守として祀られたのがこのお稲荷さんとのこと。

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/12-1.pdf

■新田開発に参加する村民たちの多くは借財によって苦しい生活を送っていた。田畑は誰のものでもなく皆で一緒に耕し農作物を作るものと考えた池上家二十四代幸豊は、無尽の取金や作徳銭(年貢を納めた残り)を合わせた資金を、村民への貸付けや雑穀の貯蔵にまわし、作徳金の運用や利息などで新田開発を続けた。新田開発のなかでもこうした田畑は「義田」と呼ばれ、取り組みの無事を祈って神社が創建された。
■付近は江戸時代の稲荷新田村の一部で「四谷耕地」といわれた地である。4軒の家で開墾され「四ツ家」から「四谷」に転じたといわれる。

いたづらをする人が居るからでしょうが、こうなるともう檻に閉じ込めているのとみためがかわりません……。

境内のすみに観音さまとお地蔵さまがありました。

(2022.07.27訪問)