松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2024年5月5日(日)の日録。

むかし似たような事件がありました。

ドイツのミュンヘンにあるピナコテーク・デア・モデルネは、パブロ・ピカソやパウル・クレー、アンディ・ウォーホルなどの巨匠の作品2万点以上をコレクションに収めるドイツ最大級の美術館です。
ピナコテーク・デア・モデルネは2024年4月15日に、この美術館に技術スタッフとして勤務していた51歳の男性職員が、自分の絵画を持ち込んで展示していたことを公表しました。この問題が発生したのは2月26日のことで、当該作品はギャラリーの壁に丸1日展示され、閉館後に撤去されたとのこと。 

美術館のスタッフがこっそり自分の絵を展示する「逆絵画泥棒」が発生、職員はクビになり最長2年の懲役刑に直面 - GIGAZINE

美術館にこっそり自作品を持ち込みバレて解雇されたケースを読み、ふと思い出した事件があります。

https://www.trc.co.jp/solution/ic.html

図書館の本はICタグやバーコードで管理され、正規の手続きを経ないと持ち出せないようになっています。

或る市立図書館で、棚卸のさいほんらい存在しない小説本が複数発見されました。

自費出版した小説本を、息子が可哀想と思った母親がこっそり書架に押し込んで帰ったものでした。

図書寄贈のお願い 横浜市

福岡市 図書館に本を寄贈する方法を知りたい。

上記のとおりどこの図書館も本の寄贈を受け付けていますが、中身や汚れ具合等で判断し、そのすべてが開架書庫(一般住民に貸し出せるようオープンになっている書棚)に配架されるわけではありません。

とうぜん、日の目を見ずに廃棄されることもあります

どうやらそれが不満だったようですが(ということはどこかの公立図書館で寄贈にチャレンジしたことがあるというわけです)、いくら息子が可愛くてもそういう目の曇りかたはどうなんでしょうね……。

なお、蔵書に所蔵されるかたちで数年でいいから日の目をみたい、という自己顕示欲の旺盛なかたは、小説の自費出版ではなく、郷土誌(郷土史)をやられたらよいと思います。小説を寄贈してもゴミになるのが多数ですが、郷土誌は意外と選別に耐えて残ります。生きた証を図書館の蔵書に残すことで求めたいかたは、地元の歴史について書くのがいちばんです。

 

5日の記録。

今日は知人事務所のかたと小倉で昼飲みの予定があります。

私以外の方は本日新幹線で帰るため、集まれる時間が昼間になってしまいました。

私も明日を考えたらお泊りはできません。

飲酒せず食いまくることにします。

すでにインターネットやSNSなどでも流布しているのでご承知の方も多いと思いますが、5月5日の9時から己巳月の己巳日です。しかも9時から11時までは、己巳時というおまけもついてきます。

これ弁財天の縁日とされていますが、パッと思いつく掃除の行き届いた弁天様が思い浮かびません。その代わり、龍神様にお参りすることにしました。

知人事務所が提携している駐車場は、本日祝日のため無料券と引き換えることができるスタッフが居ません。もし利用するといったん支払い、後日交通系ICカードにポイントで返金ということになります。それも面倒なので、JR日田彦山線の呼野駅に車を停めて、列車に乗ります。

今回向かうのは、下関・長府にある豊功神社と忌宮神社です。

JR下関駅からサンデン交通の路線バスに乗り換え、松原バス停で下車しました。

神社の案内板のうしろは、県立高校のグラウンドです。ここから歩きます。

神社入り口までバス停から5分ほどで到着します。

拝殿は鉄筋コンクリート造、本殿は神明造の木造です。

御神紋をみればピンとくるかたも多いでしょうが、ここは長府毛利家代々を祀る神社です。秀元公のご尊影が拝殿に掲げられています。

豊功神社は神話伝説の島として知られる満珠・干珠の2島を展望する絶景の此の地に鎮座する旧県社で、祭神は応神天皇・武内宿祢・穂田元清・毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩公を祀る。古くより櫛崎八幡宮の鎮座地であることが文書にも見えるが、慶長7年(1602)秀元公が当地に城を構えるにあたり、毛利氏の守護神宮崎八幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り左に櫛崎八幡宮を遷し、右に高良大明神を祀って宮崎八幡宮と称し、のちに松崎八幡宮と改称した。天保5年(1834)毛利秀元公の霊祠に豊功大明神の称号が許され、慶応2年(1866)豊功霊神をはじめとする霊社が忌宮神社境内に創建されて豊功社と名づけられ、明治10年豊功神社と改称。大正6年松崎神社と合祀し此の地に移遷。昭和44年火災により社殿焼失す。昭和57年8月より境内の環境整備を進め境内社、大国神社・串崎稲荷社・秋葉社を建立。昭和61年本殿を再建し中殿に豊功神社、左に松崎八幡宮、右に大国神社を祀る。 

神社検索(山口)

現地案内板や皇学館大学が運営するホームページに「高良大明神」が登場するのに驚くかたもいるかもしれませんが、この地は高良玉垂命を地主神とします。

この日限定で、「宝珠」を社頭にお出しいたしました。
大願成就の「宝珠」、「干珠(かんじゅ)・満珠(まんじゅ)」です。
高良の大神様が神功皇后をお助けされた際、宝珠をもって道を開かれたという伝説・御縁起があります。
さわったり、なでたり、ご夫婦やご友人同士で力をあわせて持ち上げながら、開運、招運を祈っておられました。

1月19日、玉替祭(たまがえさい)を執り行い、「宝珠みくじ」の授与をいたしました。今年1年、幸運を授かりますようにー。多くの御参拝の皆様、有難うございました。

人生最後にたどり着いた高良山の中腹に玉垂宮があるため、久留米の神様だとおもわれがちですが、玉垂命の足跡は各地にあります。下関・長府もそうですし、田川の香春岳も「高良峰」として玉垂宮神秘書に登場します。

そして、その痕跡は時代が下るにつれて久留米・筑後以外消えていきました。

下関市長府宮崎町 豊功(とよこと)神社 - 松村かえるの「かえるのねどこ」

約5年ぶりに訪問した龍神様は、びっくりするほど見違えてきれいになっていました。

目の前の豊浦の海は竜宮界との接点とのこと。最近生活が苦しいので日銭の多い仕事を恵んでください。とお願いをします。

龍神様の反対側にある干珠島・満珠島の案内板の横から、芝生の公園に足を踏み入れます。

画像右手に、干珠島・満珠島があります。

柵に近づいてiPhoneで干珠島・満珠島を撮影してみました。雲のあいだから陽光が降り注ぐ姿がキレイです。

国指定天然記念物 満珠樹林・干珠樹林

大正十五年十月二十日指定

ここから東に約一・二㎞、及び三・○㎞沖合の周防灘には「満珠」「干珠」の二つの島が浮かびます。この二つの島は古来より様々な呼び名と伝承を持つ島として知られています。古くは日本書紀に「興津島」「平津島」とあり、神功皇后伝説が島名の由来となっています。また関門海峡を舞台とした源平合戦の物語にも登場します。この両島は古くより忌宮神社の飛地境内として禁足地であり、現在も立入が制限されています。そのため、島内の植物が荒らされることなく、原生樹林の植生を今に残しています。
「満珠」と「干珠」の島名については、本文を含め国の天然記念物の説明では沖側の島を「干珠」、陸側の島を「満珠」としていますが、国土地理院の地図や忌宮神社の古絵図では逆になっており、現在では両説が並存します。両島とも様々な植生が見られますが、特に瀬戸内海にありながらヤブニッケイなどの高木や、ヤブツバキやハマビワ、イヌビワなどの亜高木、ホソバカナワラビなどの草本といった暖地性の植物群が見られることが特徴です。ただし、昨今は自然環境の変異からテイカカズラなどのツル性植物が優勢となってきているようです。干珠樹林では、ナタオレノキやハマセンダン、バクチノキなどの巨樹なども存在し、またスダジイ群叢が認められるなど、うっそうとした原始林の様相を呈しています。また満珠樹林はムクノキなどの落葉樹とカクレミノやムべなどの常緑樹とが混在したやや背の低い原始林で、特にヤブツバキが顕著に存在する植物群落を形成しています。
これらの植物樹林の貴重性が認められ、国では大正十五年(一九二六)に両島を天然記念物として指定しています。また併せてその自然景観の傑出性から満珠、干珠一帯は「瀬戸内海国立公園」としても指定されています。

下関市教育委員会

豊功神社を出て、歩いて忌宮神社にも足を運びます。お参りするのはたぶん昨年11月に交換する御神札をいただきに来たとき以来です。

中央に忌宮として神功皇后が祀られています。

正面向かって右手が高良社で、ご祭神は「地主大神」とされています。

記紀神話と話をすり合わせようとすると、高良玉垂命はどうしても隠さざるをえません。玉垂宮神秘書では足仲彦(記紀では仲哀天皇)死後、玉垂命が神功皇后を后としたことが記されます(つまり若宮=仁徳天皇はこの二人の子ということになります)が、それでは万世一系でないといけない皇統がおかしくなってしまいますから、武内宿禰という人物を創造して神功皇后の家臣とし、玉垂命は抹消されてしまいました。

ただ、それはあくまでも東征後、いまの畿内に王朝の本拠が移ってからの話です。

こうやって地元を歩けば、いくら頭を隠しても尻は出てしまっています。

荒熊稲荷さんにもお参りします。

ここには持って帰りたくなるくらい可愛い狐さんがいます。

境内を出て、城下町長府バス停からJR下関駅に戻りました。

JR下関駅内のモスバーガーで、朝食にフィッシュバーガーとコーラをいただきます。

集合時間は12時なのに、とんでもない時間に小倉にたどり着いてしまいました。

JR西小倉駅で列車を下り、あらためて八坂神社にも顔を出します。

ちょうど10時です。ここに龍神様がお祀りされている記憶はありませんが、境内の高倉稲荷さんで「生活が苦しいので少しでもお恵みください」と手をあわせてみることにします。

今日も英語と中国語が飛び交っています。市街地のなかにあるため、どうやら外国人の観光ルートに組み込まれているようです。中国語がよくわかるわけではありませんが、観光ガイドの字体をみるかぎり、台湾のかたかな?という気はします。

小倉城側出入口付近にある三本松高倉稲荷さんに、もう少し委託料があがりますよう、月々の収支がトントンで、まったく余裕がありません。たぶんまだ死なないので貴重な老後資金(退蔵資産)に手をつけるわけにはいきません。もう少しわりのよい仕事を恵んでください、とお願いをします。

境内を出てすぐのところにも、高倉稲荷さんがあります。

以前なにかの本で、大阪・中央区にある高津宮の高倉稲荷さんから最初に分祀されてやってきたお稲荷さんがこの方で、市内各地に商売の神として分祀されたが、空襲で焼かれさらに戦後区画整理やらなにやらで小倉城の敷地や八坂神社境内に再集合したというのを見た記憶があります。間違っているかもしれません。