松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2023年5月11日の日録

むかしのひとと現代人の感覚のちがいがすごい。

孫晧は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという。やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。濮陽興と張布は孫晧を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫晧に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。

孫皓 - Wikipedia

司馬炎は女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫晧の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。

司馬炎 - Wikipedia

官女(お手付きにするため飼い殺している女性のみなさん)を開放したら明君ってそんなにすごいことなのかと不思議におもっていると、どうやら国内から選抜して5,000人も囲ってたらしくて、そりゃあ、それだけ特権階級が囲ってればほかの男は日照るわなぁ、とビックリ。一夫一婦が常識だと刷り込まれすぎているせいか、どうもこういう感覚はよくわかりません。

しかし、1万人後宮にいて、史料に残る司馬炎の子供は25人。

朝・夜2回で、(10,000人/365日)/2回で一周するのに約14年。司馬炎が死ぬのは290年なので、上記の273年から17年あります。もっとほんとうは子供が居たのか、本人が選抜した一部の女性だけに会ってたのか(ほかはそのまま飼い殺し)。

露骨に権力というものがなにか、わかるお話です。

 

11日の記録

今日は昼から県議の先生に新人議員といっしょにごあいさつの予定だったのですが、なんと議員が電話したのが昨日だったということで、おもいっきり予定空振りでした。

まぁ、面識まったくないわけじゃないけれどおれがするより本人からまず電話で「このたびはありがとうございます。今後ともご支援ご指導お願いします。つきましては事務所にお伺いさせていただきたいのですが。*日か*日のあたりで御都合のよい時間ございますでしょうか」くらい言えばいいのに。

とりあえず、近くの市役所支所でいろいろと手続きを済ませます。

まだまだ議員の新人研修がんばる日々が続きそうです。こんなんでこれからの台風シーズン、災害だのなんだの山ほど話が舞い込むのに大丈夫か……。

手切り鉄板焼肉 火縁 - 甘木(西鉄)/食堂 | 食べログ

杷木からいったん甘木にもどってきて、13時まで家で休憩して、それから議員の事務所で選挙のときの資料整理をします。