松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

2024年5月15日(水)の日録。

ふと整理してみる。

「言っていることがよくわからない」と最近この日記をのぞくようになったかたから言われたので、ざっと整理してみることにします。

1993年のコメ需要量は1,000万トンあったが、収穫量が783万トンになる事態となり、政府備蓄米の23万トンを総て放出しても需要と供給の差で200万トン以上不足し、東北の米農家が自家用の米を購入するほどであった。北東北では翌年の種籾の確保が出来なくなる地域もあった。
高度経済成長期以降、消費者が食味・品質を追求する傾向が強まったため、生産地で冷害に弱くても質の良いブランド米への志向が高まったこと、農家が日本国政府(農林水産省)の減反政策に翻弄されて営農意欲を削がれ、深水管理などの基本技術を励行できなかったことも、被害を拡大させた。

1993年米騒動 - Wikipedia

このとき学生でしたが、稲の花が咲いている期間にほんの少しでも気温が16度を下回ることがあれば、稲は自衛のため落花させるのが原因だと聞きました。稲は寒さに弱いわけです。このことからほんとうに朝鮮半島からやってきたのか?と疑問をいだいたのがひとつ、もう一つは、日本より寒い朝鮮経由で稲作が伝来していないなら、経由地は南国に違いなく、なぜ南国が文明の発祥ではないのか?という点でした。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png/1024px-Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png

Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - Wikipedia 

その疑問に答えてくれたのは、Y染色体ハプログループの移動推定図でした。

畿内より九州にさきに人が住んだことがわかります。

北部九州に水稲耕作が伝来して約250年後、西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に稲作が始まり、畿内の河内平野では紀元前750~550年頃の間に稲作が始まったとされている。紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散して、この地でいったん停止した。

弥生時代 - Wikipedia

ながねん育てられているうちに選抜され冷害につよい品種が残ってきたものの、まさに「尾張(終わり)」が日本の端っこだった時代があったわけです。

こう考えると神武東征神話が示すとおり、九州の一部族が新天地を求めて畿内に侵攻し、ナガスネヒコはじめ先住者を蹴散らして日本を建国しました、という話ともつながります。

最終的に畿内政権(現王朝)が日本全土を制圧していくにしても、古巣の九州だからこそ新参者に従わない勢力(くまそ)も居ます。

新興勢力に老舗がホイホイついていくわけはないからです。戊辰戦争白虎隊を知らない人はいないでしょう。あれと同じことが、当時の九州で起きました。

ここまでは我々でも理解できるのですが、問題は、この先。

どこからが「日本」なのでしょうか?

倭・倭人関連の中国文献 - Wikipedia

結局のところ畿内政権(現王朝)が全国制圧して「日本」となったわけで、これ以前にあった国や王朝との交易記録はなんら関係ないことになります。邪馬台国がどこにあったかと言われてべつに九州のどこにあろうと、現王朝からみれば成立前の地方国家なわけですから、ほんらいどうでもよい話です。

問題は、大国であった中華文明に軽くみられるわけにはいかないことです。間違っても新興国や新参者を名乗ることは許されません。畿内政権「日本」は檀君神話級に歴史と伝統のかさまし(捏造ともいう)に挑みます。それが記紀神話の骨格で、このときに取り入れたのがすでに中華文明と交易があった旧国家の記録と伝承であったため、自縄自縛に陥ります。

旧国家・旧体制側との継続性をいやいやながら強調する羽目になり、祀り上げなきゃしょうがないからつくったのがなぜか都から外れた伊勢であり、出雲でした。

都の近くになぜ祖神を祀らないのでしょうか?実家の墓をわざと数週間・数か月かけて歩くところに作るひとが、どれくらいいるでしょうか?

逆に実質的に根幹をしめた勢力の祭神は、都の近くに残ります。

新たに磐座信仰の拠点として三輪山が選びなおされ、大神神社ができます。

磐座が辺津・中津・奥津と「なぜ宗像大社じゃあるまいし辺津・中津・沖津なのか」とはじめて訪問したとき、思ったものです。いまにしておもえば、九州からみんなで進出してお互いの神をまとめて祀り上げたさいに混濁したとみるべきでした。

こういう話を書くと、意外とまじめに「九州にでかい遺跡ありますか」と言ってくるひとがいますが、そういうときは「江戸城を最初につくったのは太田道灌公ですが、最初からあのサイズであそこにあったわけではない。江戸時代に何度も拡張工事をしていまの姿がある」と言えば、たいてい発言のアホさを理解して黙ります。太閤秀吉の話を持ち出すまでもなく、親はたいして出世できなくても、子がドーンと出世して後世に名を残すケースはありうるからです。九州王朝説というのはまだ出世できなかった親の代(群雄割拠のいわば戦国時代)の話をしているわけで、遺構が立派なわけがありません。また、領主がかわるたびに住民も移動していますから、記憶すら上書きされ放題だったりします。そして、自らの出自は立派に粉飾したがる(徳川家/松平家とかもそうですね)ことはあっても逆はないのが、さらに困難にさせます。

私がやったのは、とにかく行けるかぎり各地の神社に行って由緒を読み、文献を調べてみることでした。記紀神話と必ずしも一致しない伝承伝説の断片に、上書きできなかった歴史があるとにらんだからです。

とうぜんこれ、記紀神話を教典とする(コーランか聖書級に刷り込まれている)かたから「テキトーなことを書きやがって」と批判をくらうことになります。そしてそういうひとほど、意外と政治的実力者層に縁があったりします(政治家は神頼みの側面があるので、宗教好きが多い)。ときどき現地画像や資料を提供送付したりしていたかたのなかに、嫌気がさしサイト閉鎖したかたも現れるようになり、過去記事を削除するまでには至りませんが、新規訪問はいったん様子見の状況です。

悉皆調査(えり好みせず全部行く)は、常にほめるということができません。ここがネックになります。

新規訪問の再開はいまのところ困難かもしれません。

 

15日の記録。

昨日、たまたま近所のお店で賞味期限が1か月後にせまった「うまかっちゃん」を見つけました。2割引きのシールが貼ってあったので、買い求めます。

自宅で豚骨ラーメンを食うのは、ほぼありません。半径1.5km圏内(=自転車で活動できる範囲)にある豚骨ラーメン以外が食えるラーメン店は「来来亭」のみという状況で、しょうじき家に帰ってまで食いたくないというのがあります。

ゆえに味噌ラーメンの袋めんが山積みになるわけです。

この手の細麺を売りにしているものは、まずどんぶりに入れて、沸騰したお湯を加えます。そしてラップかフタをして、電子レンジ600Wで90秒加熱します。

この商品も「ゆで時間90秒」が売りです。細麺すぎるとどうしても鍋でつくると加熱しすぎてしまいますから、こういう作り方のほうが、あっています。

5時になると空もだいぶ明るくなってきます。冬場のように、懐中電灯で照らしながら鉢植えが水切れになっていないか確認する手間がはぶけるようになりました。

昨日はすこし豪勢にしすぎたのを反省し、晩飯は先日買った10個入298円の野菜コロッケを3つと、パンケーキです。貧しみをかみしめながらいただきます。