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一部の九州王朝論者が、伏見稲荷の原型としている神社です。
建物は、木々でおおわれ、直接道路からみることはできません。
横から、境内にはいることができます。3年前に訪問したときから、鳥居が新しくなっていました。
今回の再訪にあたり「春日市史」を調べてみました。
もともとは1816年(天保9年)に鬼倉少弐藤原政子が斎主(祭祀の中心人物、神主や神職に近い)となり、伏見稲荷を勧請したのがはじまりとのこと。それとは別に、神祇伯王家(白川伯王家)から稲荷大明神の神号を授けられ、そのほかにもお稲荷さんを複数勧請を受けています。
ずいぶんと話がちがいます。吉田神道ではなく伯家神道から神号を授けられた正統性はあったとしても、伏見稲荷を超える歴史があったとは、とうてい言えそうにありません。
板張りも張り替えられ、現在も篤い崇敬をうけていることがわかります。
春日市史には、明治初期に斎主鬼倉少弐藤原政子が亡くなるまでの繁栄の時期と、斎主死亡後、衰退しつつも近隣の信仰対象として生き残ってきた時期の2つにわけて考察する必要があると書かれています。
本殿正面向かって右手に、3つのお宮が並んでいます。春日市史と現地を確認するかぎり、画像左手が斎主鬼倉少弐藤原政子の霊璽を祀るお宮、中央が恵比須宮・大国神社、右が正一位稲荷大明神です。
3つのお宮をはさみこむように、御神狐像が並べられています。
本殿にむかい手をあわせます。
白川伯王家から1回(天保11年)、伏見稲荷から3回(弘化2年、弘化4年、嘉永2年)、お稲荷さんの勧請をうけた記録があるそうで、すると本殿には伏見稲荷から連れてきたお稲荷さん3柱、右手のお宮に白川伯王家から勧請をうけたお稲荷さんがあると考えられます。
所狭しと掲げられた絵馬の数々が、斎主がいたころの隆盛ぶりをいまに伝えています。
一部の九州王朝論者がいう伏見稲荷の原形?とは、さすがにいえない気もするのですが……。むろん、鬼倉少弐藤原政子が登場するまえから、ここにはお稲荷さんがあったのだ!と言われれば、なんとも言えないけれど……。
過去の訪問記録
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.07.20訪問)