松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

佐賀県唐津市南城内 唐津神社


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唐津神社公式ホームページ

唐津神社 - Wikipedia

祭神
一ノ宮 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
二ノ宮 神田宗次公(こうだむねつぐこう)
相殿  水波能女神

歴史
社伝によれば、三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願した神功皇后が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持ち、天平勝宝7年(755年)に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったという。文治2年(1186年)、宗次の後裔を称する神田広(実は源久の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を合祀したという。(略)明治6年(1873年)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した。それ以前の神社の名前はわからない。昭和17年(1942年)県社に昇格

唐津市の郊外に神田という地名があります。

武家家伝_平戸松浦氏

松浦氏の出自に関しては、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説である。すなわち、嵯峨天皇の皇子源融の五代の孫源綱の子久が松浦郡に下向して土着し、はじめて松浦氏を名乗り、松浦源氏の祖になったというものだ。
(略)
渡辺綱の曾孫にあたるという源久は、御厨検校に任ぜられて松浦に下り、志佐郡今福に来住した。そして、松浦の中心に位置する今福梶谷に館を構え、背後の城山に勝屋城を築き、松浦氏発展の基礎を築いた。久には直・持・勝・聞・・調らの子があり、それぞれ波多・石志・荒古田・神田・佐志氏の祖となった。

同じ神田(こうだ)氏を名乗りつつも、神田宗次と神田広には血縁がありません。なのに、神社にわざわざ祀っています。どう考えるかいろいろあるところでしょうが、推測として、神田氏の名跡を継いだ松浦広が、祖先を敬う姿勢を示すため、豪勢に祀りなおしたというところではないでしょうか。

この神社は神功皇后伝承にもとづく住吉神社という側面と、偉大な先祖の名跡を受け継ぐ姿勢を示すため建てられたという2つの側面があることになります。

境内の案内図のとおり、参道脇には複数のお宮があります。

どうやらこれらは、町内にあったものを移転したもののようです。

全国唯一の「寿社」とのこと。首から上に御利益があるとのことでした。国安命というのがどなたを指すのかがわかりません。

画像左が淡島神社で、中央が鳥居天満宮です。

豪商が太宰府天満宮に鳥居奉納を発願し、地元に天満宮を勧請して祈願したとのこと。その後も神社は残り、大正時代に境内に移転してきたそうです。

水天宮は、唐津筑後人会により昭和24年に建立され、昭和39年に唐津神社に遷座(移転)したものとのこと。

火伏稲荷の案内板に「富士の裾野より来られ松浦川をシジミ貝で渡られ」とあり、それを信じるならいったいどんなサイズなのか、想像もつきません。

(2022.06.12訪問)