松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市中央区西公園 立帰天満宮


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西公園に向かう途中にある天満宮です。

おもしろいことに境内に至る参道は「下がり宮」となっています。行きは下り・帰りは登りとなる、通常と逆パターンです。

立帰天満宮

菅原道真を祭る神社です。社伝によれば、ご神体は元来、武蔵寺(筑紫野市)の境内に祭られていましたが、元禄年間(1688年-1703年)に荒津山の麓の源光院へ移されました。明治20年(1887年)福岡師範学校の建設に伴い、現在地へと移転しました。港近くに鎮座する当社は、その名称から旧藩時代には藩船の船乗りに信仰され、近代に入ってからも特に遠洋航海にでる漁業関係者の崇敬を集めました。戦時中には出征兵士の無事な帰還を願う人々が多く参詣したと伝わります。

立帰天満宮(たちかえりてんまんぐう)
菅原道真を主神とし 地主神たる山王神を併せ祀り 荒津山の菅原神社として内外の信仰を集めておりましたが 島原の乱の折 祈願をこめて出陣した黒田武士が無事に立ち帰ったことから 文神ばかりか武神でもあると信仰が一層深まり それ以来日本で唯一の立帰天満宮と 尊崇をうけるようになりました
縁起によれば御神体は菅公手作りの木像と伝えられ 元禄五年(1692年)筑前御笠郡武蔵寺村で掘り出されしばらく 森天神として武蔵寺境内に祀られていました 元禄の末に武蔵寺の本寺たる荒津山麓の源光院内に御遷座 やがて現在の社に祀られるようになりました
学業の神様たる御神徳は勿論のこと 航海 国内外旅行 家出人 失せ物などすべて無事立ち帰ることに御神威を顕せられ霊験あらたかと 遠近の数多くの崇敬者に参拝いただいております

島原の乱って1637年ですから、その時点で荒津山の天満宮があって、1692年に武蔵寺(ぶぞうじ)で御神体が掘り出され……。どうも時系列が混乱しているようにみえます。しかも当初は武蔵寺境内に森天神として祀られていたとあり、もし島原の乱で祈願した武士が無傷で戻ってきたから「立帰り」であるとするなら、この神社は最低でも2つの天満宮が合体した姿なのでしょう。

もしくは、ほかの天満宮の縁起が混じりこんでいます。

武蔵寺は、天拝山に登る途中、二日市温泉やイオンモール筑紫野が近いところです。こちらもいずれ訪問してみたいとおもいます。

境内には御大師堂もありました。

「無実の冤を陳じて都に立帰らんことを祈らせられ」

最後に福岡県神社誌を確認すると「菅公が無実をはらして都に帰りたいと祈りつつ彫った木像が御神体」とあり、これなら意味がつうじます。御神体が掘り出されるまえから島原の乱で無事生還して、ここに神社が出来たのは元禄って意味がわからなかったんですが、この福岡県神社誌の記載がほんとうなのでしょうね……。

福岡県神社誌:下巻346頁
[社名(御祭神)]立帰天満宮(菅原道真)
[社格]無格社
[住所]福岡市西公園谷町
[由緒]本社の創建は極めて古く御神体は菅公在世中天拝山に登らせ給ひ無実の冤を陳じて都に立帰らんことを祈らせられ斎戒以て自像を彫ませ給ひしと謂ふ、後菅公の冤晴れて天満大自在天と尊崇せられ給ふに及び御神体を天拝山下武蔵寺境内に祀りたり、四代の藩主綱政公菅神を尊信せらること殊に篤く自ら天神の御影を写して太宰府天満宮に寄進し給ふに及ひ元禄四年の末以来天神の出現に際し武蔵寺に請ひて御神体を奉還し之を市内荒戸村谷町源光院の附近に勧請す、是即本社の草分なり、明治二十年師範学校を建築せらるるや現在の社地に移建して今日に及び崇敬者遠近より集ひ引きも切らず。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.05.09訪問)