26日は8時から仕事場に出ました。
電算関係の機器点検とUPS(バッテリー)の交換です。
9時半に終了し、着替えて先週に続き、うきは市浮羽町新川地区を訪問しました。今回は、車は合所ダムの駐車場に停め、歩きます。
隈上川にかかる橋を渡ってまず対岸に向かいます。最初は内ケ原集落を目指します。
地理院地図で、内ケ原集落に鳥居マークがあります。福岡県神社誌に記載がありません。先週訪問した際、細い道ばかりなのはわかっていますから、非地元民としては、徒歩が確実です。
今回歩いた距離は約20kmになりました。朝10時40分ごろにスタートして、夕方の16時45分に駐車場に帰り着いたので、おおよそ6時間、山中を徘徊したことになります。
山間地だけあって、少しでも平らな土地がとれそうなところは、田畑になっていたり果樹や栗の木が植えられています。
ちょうど地図で鳥居マークのところにくると、石段がありました。
この石段をあがって行った先に納骨堂と御堂があるのですが、扁額などがなく誰が祀られているのか判別できません。石段をおりて、ピンクのシャツを着た年配の男性に伺うと「ごんげんさまと呼んでいます」とのこと。
「なに権現ですか。彦山権現とか、秋葉権現とか」
「わかりません」
ほかの人にも尋ねようかと思いましたが、このやりとりが聞こえているのか、年配の女性方は向こうを向いて農作業を続けています。訊かれてもわからないから、声をかけられたくないのでしょう。
あきらめて先を急ぐことにしました。市道を歩いていくと、おそらく自家用でしょうか。お茶の木がきれいに刈り込まれていました。お茶の木は根っこがつよいため、こうやって禿げ上がるくらいに刈り、収量をとることもできます。高級品として出荷したければ、ここまでやるのはさすがに見かけませんが……。
水田の合間に果樹栽培が行われており、山間部の農家にみられる多品種少量生産がいまも行われています。こんな風景、もう何年も見ていませんでした。
途中、大きめの石があったので休憩しました。足元には栄養ドリンクの瓶が散乱していました。ごみの不法投棄でしょうか、それとも登山者が棄てたものでしょうか。いずれにしてもけしからんものです。
さらに登って行くと、地面のひび割れがあちこちで見受けられます。人工林の杉は、植林されて30年もすれば1トン近くになります。足元の地盤が弱いと、ひっくり返って流木となり、麓を襲うことになるわけです。
戦後住宅需要の伸びを見越してじゃんじゃん植林しちゃったものが、利用がはかどらず山中で太るばっかりとなり、災害の原因となっています。伐採して雑木林に戻すほかはありません。これは地方に住む国民の生命と財産に関する問題なのですから、ちゃんと国営事業で尻拭いしてもらう必要があります。むかしのように各地に営林署をつくりまくって、そこで国家公務員として若者を雇用すれば、地方に若者が定住することにもなり、また、給料を事務屋や自衛官・警察官・医師より高めに設定すれば、人気職種となるでしょう。
結局のところ、農業と林業を「食える仕事」にすれば、地方の人口流出は止まります。下手をすると、出生率2を超える地域も出てくるでしょう。むろん、本格的に国営化するためには土地の私有をどうするかという問題はあるのですが。
市道を歩いていると「御座石」の案内板に出くわしました。近くに、刈払い機で道がつくられており、歩いて下りると、大きな石が3つあります。どうやらここが、オシロワケ(景行天皇:大足彦忍代別天皇:おおたらしひこおしろわけ、大足彦)が筑後地区を制圧するため巡回した場所らしいのです。
50-6.鉄を求めた景行天皇の九州遠征:日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権:SSブログ
景行天皇の九州巡幸とされるものは、九州王朝残党の制圧であったと考えています。決して畿内からはるばる九州遠征したのではなく、九州の香春岳・英彦山・宇佐宮(つまり豊前国)を拠点とし、「の」の字の反対コースで各地を転戦したのです
さらに歩くと、地図で平利山集落とされている場所に出ます。
もとは住家や田畑があったと思われる石垣の跡はあるのですが、家らしきものがほとんどありません。もうここには住んでいないのでしょうか……。
その代わり、見渡す限りの茶畑が広がっています。立派な茶刈機があり、久しぶりに大規模な茶園をみました。
歩いていると、電話線柱や石垣の跡に出くわします。やはりここには人の生活があったようです。本人たちは麓へ下り、この茶畑を管理するために登ってくる生活に切り替えたのでしょうか。
周囲の山々を眺めるだけですが、ちょうど風通りのよい場所があったので、ここでペットボトルのコーヒーとソイジョイをいただき、昼休憩にしました。
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