美風庵だより

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田川郡香春町香春 香春神社


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香春神社を訪問するのは、私がまだ前の仕事場に居た頃以来です。

香春神社

この日記でも参考にさせていただいている「玄松子の記憶」で取り上げられ、近場にこんな面白い存在があったことに驚き、訪問しました。

いずれこの「神社めぐり」でも取り上げようかとは思っていたのですが、このくらいの有名どころだと、いまさら何を書くのか、という気もします。今回、引用が多めになりますが、お許しください。

まず、香春神社の概略について、現地の案内板を文字起こししてみます。

福岡縣田川郡香春町鎮座
縣社 香春神社御由緒(略)
祭神及ビ創立
第一座 辛国息長大姫大目命
 神代ニ唐ノ経営渡ラヒ給ヒ崇神天皇ノ御代御帰国香春一ノ岳ニ鎮リ給フ
第二座 忍骨命
 天照大神ノ第一皇子ニシテ二ノ岳ニ鎮リ給フ
第三座 豊比賣命
 神武天皇ノ外祖母住吉大明神ノ御母ニシテ三ノ岳ニ鎮リ給フ
当神社ハ前記三柱ノ神ヲ奉斎セル宮祠ニシテ遠ク崇神天皇ノ御宇ニ創立セラレ各神霊ヲ香春岳上頂三ヶ所ニ奉祀セシガ元明天皇和銅二年三ノ岳南麓ニ一社ヲ築キ三神ヲ合祀シ香春宮ト尊称セラル。
延喜式神名帳ニ在ル、豊前一ノ宮六座ノ内ノ三座ナリ。明治四年九月郷社ニ列セラレ香春神社ト改称シ明治六年七月十五日県社ニ列セラレ今日ニ至ル。

つづいて、wikipediaの説明も引用してみます。

香春神社 - Wikipedia

延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。(残りの三座はすべて宇佐神宮内)三座は、辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比咩神社で、もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった。

和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早い。
平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある

宮司は代々、赤染氏、鶴賀氏が務める。

ちなみに、高良玉垂宮(高良大社)が正一位の神階が与えられるのが897年です。その約50年前ですから、これだけでも当時の社格の高さをうかがい知ることができます。

第一殿ということは、祭神の筆頭として、朝鮮から帰国した神を祀っていることになります。この神様が誰なのか、議論があり、決着はついていません。ただ、彼女が何者かを比定するためのヒントはあります。

一つめのヒントは、第二殿の天之忍穂耳の存在です。天之忍穂耳と婚姻関係もしくは血縁関係がある女性の誰かに、絞られます。すぐ気が付くのは、天細女(あめのうずめ)と市杵島姫(いちきしまひめ)でしょうか。このふたり、いずれも実父は、天照大神と喧嘩して朝鮮のソシモリに亡命し、のちに牛頭天王として帰国するスサノオです。

いまふうに言えば、このふたりのどちらかは、帰国子女なのです。

二つ目のヒントは、第三殿の豊比売命の存在でしょうか。玉依姫・豊姫(とよひめ・ゆたひめ)とされる女神は複数おられますが、住吉大明神こと鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の母は、海神 豊玉彦(豊国主・豊前坊)の娘 豊玉姫しか居ません。神武天皇の外祖母という表現は難解ですが、本物の神武天皇であれば世代が逆転しますので、煙に巻くための創作とみたほうがよいでしょう。もしくは神武天皇の母である玉依姫との意図的な混同です。

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この関係を、ざっと系図にしてみました。作図上、厳密な世代違いは無視しています。
いっけんすると御祭神の関係性がわかりにくく感じますが、図にすることである程度みえてきます。

系図をみると、2点がぼかされていることに気づきます。

1つ目は、豊玉姫玉依姫の存在です。崇神天皇の母 玉依姫ではなく、敢えて住吉大明神 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の母であると説明がなされていることに注意せねばなりません。

高良玉垂宮神秘書にあるとおり、高良玉垂命(筑紫君・開化天皇)は、鵜葺草葺不合命から神器を譲られて四王寺山で即位します。このことから、この当時、皇統につながる血筋として鵜葺草葺不合命(住吉大明神)が認識されていたことは、間違いありません。その彼の母親と混同することが、権威を高めることにつながります。

もっと言えば、母親の名前をごまかして皇統に背乗りし、接ぎ木したわけです。

もう一点の「どちらの帰国子女が祀られているのか」問題を考えるヒントは、小郡市大崎の七夕神社にあります。この神社には、中国の七夕伝承に重ね合わせるかたちで、天之忍穂耳と市杵嶋姫の別れ話が伝えられてきたのではないか、と、以前に書きました。大山咋は、天之忍穂耳と市杵嶋姫の子であり、市杵嶋姫は大国主(大己貴)を頼り、大山咋は大物主を名乗るようになります。

要は、別れさせられた公式には認められない仲であり、それを堂々と第一殿に祭祀するわけにはいかないのです。本妻格、しかも血筋は天之忍穂耳より格上の天細女が、第一殿に座っていると考えるほうが、理にかなっています。おそらく帰国子女も、天細女のほうだったのではないでしょうか。

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本殿を見上げると、筆頭は女神のはずなのに、千木は男を示しています。この社殿は、江戸時代に小笠原藩が復興したものであることを考えると、少なくとも江戸時代には、天之忍穂耳が祭祀の中心と認識されていたことがわかります。

行橋市下稗田 大分八幡神社 - 美風庵だより

行橋市元永 大祖大神社・須佐神社 - 美風庵だより

翼廊(回廊)のついた拝殿は、行橋市元永の大祖神社や、行橋市下稗田の大分八幡神社を思い出させるつくりです。

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社殿脇に山王神社があり、翼廊の一段下の位置に「山王石」があります。

山王神社の石祠には、昭和32年(1957年)と彫られています。セメント採取の邪魔になって、香春神社の境内に移築してきたものでしょうか。

山王石は、昭和14年(1939年)に山頂から落ちてきたものとのことで、いま安置されている場所で止まり、御神威をあらわしたものとして、現在まで祀られているとのことでした。
もともと山の頂上に神社があった時代から、山王信仰と根強く結びついていた記録が残っているそうです。ではなぜ山王信仰と結びついたかといえば、やはり大山咋(大物主)に対する祭祀であると考えるのが自然でしょう。

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境内に、白八稲荷神社があります。お稲荷さんに祀られている倉稲魂神とは、天細女の別名です。
あらためてこのお稲荷さんを眺めながら、ほんとうに第一殿に祀られているのは天細女(辛国息長大姫大目命)なのか、という気がしてきました。天細女が第一殿に鎮座していることになっているが、実際には、大山咋の母 市杵嶋姫が座っているのではないでしょうか。

もしくは、第一殿には、女神像が2柱あるのかもしれません。

香春神社が、往時の名声とうらはらに、なぜ、宇佐神宮と比べ物にならない姿でしか生き残れなかったのでしょうか。現地を訪問するまで、生き残るための政治力が不足していたのだろうくらいにしか、考えていませんでした。しかし、現地を歩き、あらためて福岡県神社誌やほかの資料を読み返すと、この存在が邪魔だったのではないかと思えてくるのです。
さすがに日本書紀神功皇后紀を削除するような暴挙には出なかったものの、大正15年(1926年)に皇統譜を整備した際、国家(皇室)は、神功皇后を正式に歴代の天皇から除外しています。いろいろ詮索されそうな事績は、無視することに決めたのです。
ここは皇統の接ぎ木(背乗り)がみえる場所として、一部の神社マニア・古代史研究家には熱狂的に支持されていますが、国家(現皇室)は無視を決め込んでいます。そうでなければ、さすがにセメント鉱山として無残に削り取られることを、容認しなかったでしょう。

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福岡県神社誌:下巻166頁
[社名(御祭神)]香春神社(辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命)
[社格]県社
[住所]田川郡香春町下香春
[境内社(御祭神)]大地主神社(大地主神)、諏訪神社(建南方神)、蛭子神社蛭子神)、天穂神社(天穂大神)
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(2020.08.12訪問)