美風庵だより

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行橋市下稗田 大分八幡神社


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大分八幡宮といえば、飯塚市大分の大分八幡宮をまず思い浮かべるのですが、京築地区にも3社、大分八幡を名乗る神社があるのに気づいたので、現地を訪問してみました。
福岡県神社誌をみると、御祭神は應神天皇仲哀天皇神功皇后、比女大神、大山咋(大物主=日吉大神)です。

景行天皇の土蜘蛛征伐の際、守護として日吉大神(=大山咋)を祀ったのが最初とのことで、「稗田」という地名も、当初は「日吉田=ひえだ」と呼ばれていたことから来たものだそうです。

貞治2年(1363年)に、当時この地域を治めていた馬ヶ岳城主新田義氏が、大分八幡宮を勧請し、現在に至ります。

その後、寛永3年(1626年)に行橋市津積の大島八幡神社を分社、寛永5年(1628年)に、みやこ町勝山上田の大分八幡神社を分社、寛永6年(1629年)に、行橋市上稗田の大分八幡神社を分社しています。分社された時期が集中している理由は福岡県神社誌ではわかりませんが、領主の変更など、なにか理由があったものと思えます。しかもそのうちの1社は、元禄年中(1688~1704)に、「大分の2文字を取りのぞき大島八幡神社と称す」とありますから、そのあたりの理由は、再訪した折に現地のかたに訊ねてみるほかはなさそうです。

立派な回廊のある社殿です。横に長い拝殿は、旧小倉藩領に来るとよく見るもので、小笠原公の統一様式ではないか?とすら思えるほど、構造が似ています。各地ごとに神社のつくりに流行があるのは、面白いものです。

御神紋は三階菱です。小笠原公の家紋であり、小笠原公が関与した神社には、ほとんどこれが打たれています。どうも神社に関して、相当なポリシーがあったとみえます。
 
なぜ、大分八幡宮から勧請したのでしょうか。

まず、玉垂宮から宇佐神宮へ九州総社の地位が移るのは8世紀ごろです。その後、石清水八幡宮の創建(860年)にともない、宇佐神宮もまた石清水の支配下に置かれることになります。

石清水八幡宮の五所別宮のひとつが、飯塚市大分にある大分八幡宮です。筥崎宮は、もともと大分八幡宮のお汐井取りの場としてつくられました。
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筥崎宮 - Wikipedia
創建に関しては複数の説があるが、公式サイトでは延喜21年に建立された説が紹介されている。延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇神功皇后玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡の大分八幡宮玄界灘に面した土地に移したのに始まる。
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宇佐神宮 - Wikipedia

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐神宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐神宮より穂浪大分八幡宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。
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つまり流れとしては、大分八幡宮筥崎宮宇佐神宮石清水八幡宮となるわけです。現在の姿からは想像もできませんが、おそらくまだこの時代には、それなりにこの流れについての記憶が残っていたのでしょう。

ほかにありうるのは、石清水八幡宮の別宮として大分八幡宮が当時まだ権威を有していた可能性です。

どうも石清水八幡宮宇佐神宮の力関係を把握しないと、この神社の背景は理解できないような気がしてきました。少し、勉強してみたいと思います。

(2019.08.17訪問)