松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

「海底軍艦」

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00L8HWPSY/ref=atv_dp_share_cu_r

海底軍艦 (映画) - Wikipedia

amazonプライムでたまたま発見し、懐かしいので眺めています。

1963年の作品ですからリアルで視聴しているわけはないのですが、これまで数回、リバイバル上映やテレビ放送で見た記憶があります。

話の筋はwikiにお任せするとして、簡単に言うと海底で生き延びていたムウ帝国がふたたび地上進出を目指して進撃を開始、その邪魔となる海底軍艦の引き渡しを要求します。国連首脳含めて海底軍艦ってなんのこっちゃ?状態ですが、どうやら日本の敗戦に納得せず、南方に部下をつれて脱出し、独自に研究を重ねていた神宮司八郎大佐が建造に成功した、陸海空地中場所を選ばぬ万能戦艦であることがわかります。戦後、軍につながりのある海運会社の重役をしていた楠見海軍少将は、これは日本勝利のための最終兵器だと主張していた神宮司大佐を説得し、ムウ帝国撃滅のため海底軍艦を出撃させることに成功。圧倒的攻撃力でムウ帝国を破壊し、地上人類を破滅から救ったのでした。

おおよそのあらすじはこんな感じでしょうか。細かい部分は実際に本編を視聴していただくか、wikiをお読みください。

で。

やはり冷戦下なのだなぁ、と思ったのは、最新鋭の原子力潜水艦の名前がレッドサタン号(笑)

乗組員が英語を話していますからアメリカの船なんでしょうが、赤い悪魔です。「共産主義は悪」なんて名前つけるわけがありませんが、日本の観客に、心理的共産主義を悪魔だと思わせるには充分です。

レッドサタン号はムウ帝国の潜水艦を尾行しますが、安全深度を超えて浮上弁が壊れ、圧壊します。

アメリカと共産主義双方が、手も足も出ない敵を、南方に逃げ込んだ帝国海軍の残党(轟天建武隊)が建造した海底軍艦轟天号)が圧勝するという、要は世界の覇者は日本という分かりやすいメッセージに、伊福部さんの音楽がイケイケドンドンで援護射撃をするため、否応なく盛り上がります。

建武隊という名称も最初わからなかったのですが、「建武」というのは、後漢光武帝漢王朝を再興したときの最初の年号で、これにあやかって後醍醐天皇がもちいました。「建武の新政」で有名ですね。

つまり、日本は敗戦して米英の属国となったが、そこからもう一度復興させる。という意味を持つわけです。まだ若いころ、「挺身隊」の「決死隊」ように、てっきり「建武隊」というひとつの熟語があるのかと勘違いしていました。辞書を引いてもそんな言葉はなく「轟天号で日本を再興するグループ」と素直に読んでよいことに気づきました。

ムウ帝国は太平洋にあって1日で沈没した幻の大陸ということになっていますが、これ、大東亜共栄圏を主張していた位置とかぶります。

荒唐無稽な特撮映画ですが、なぜ眺めていてしっくりくるのか、齢50が近くなって、やっと気づきました。

パクス・ロマーナ - Wikipedia

国連の要請で海底軍艦は出撃したことになっていますが、これ「パクス・ロマーナ」ならぬ「パクス・ジャポニカ」を全世界が認めたことになるわけです。

海底軍艦 (映画) - Wikipedia

英題は『Atragon』。好評だったらしく、実際には続編ではない『緯度0大作戦』が、海外では『Atragon II』の題名で公開されている。ドイツでは『U2000』という題名になっている。轟天号の英語名「Atragon」の由来は、「Atomic dragon」。

 それを海外に輸出しちゃったってのが、すごいですね……。

 

田川郡香春町鏡山 鏡山大神社(後編)


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9月27日に、鏡山大神社と「鏡が池」を訪問しました。

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その際「鏡が池」にて、上記の案内板を読んでいて、いきなり「四王寺が峰」という単語に戸惑います。四王寺山といえば、太宰府の北側にあるあの山々のことで、ここ香春となんの関係が……。

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地図を確認すると、稜線沿いに「障子ヶ岳」があります。「しょうじ」と「しおうじ」、どうやら関連がありそうです。

10月3日の日録 - 美風庵だより

10月3日、実際に障子ヶ岳に登ってみました。そのときの様子は、日記に書いたとおりです。周防灘から行橋・豊津・勝山方面、採銅所から香春岳方面、そしてこの両者の間にある仲哀峠、ぐるりと見渡せます。

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中世には山城が築かれていた旨の案内板があり、たしかにこの眺望のよさを考えれば、重要な拠点として扱われていたのもうなずけます。

ではそれよりもっと古い、神功皇后の時代ではどうだったのでしょうか?

おそらく、この地はかなり重要な衛星都市であったのかもしれません。

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その可能性に気づいたのは、太宰府に向かう各地の街道にある「続命院」という地名の存在です。 

http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/report3/fukuoka/chikusino/zokumyoin.htm

続命院

 本村(俗明院:筆者注)ニアリ。今観音堂アリ。其ノ址ト云。昔九國二嶋ヨリ太宰府ニ来タリシ民。久シク逗留シ。病ヲ受テ死シ。或ハ餓死スル者多シ。太宰大弐小野岑守。是ヲ哀ミ続命院ヲ建。田地ヲ附ケテ、病ヲ養ヒ。飢ヲ助ク。続日本書紀巻四二日。仁明天皇。承和二年(八三五)。
 
続命院とは、九州各地から大宰府にやってくる人々のために設置された宿舎である。当時大宰府に所用で来る人の中には、病死したり餓死したりするものが多かった。それを哀れに思った小野岑守が、檜皮葺(ひはだふ)きの建物を7棟立て彼らを収容した。大宰府直属の医師や観世音寺の僧が彼らの世話にあたった。運営のために114町の田を充てて、財源としたという。このように、続命院は「日本最古の赤十字病院」(古老)であった。もっとも現地に当時をしのぶような遺跡や記念碑は存在しない。
 
ところで、先にもあげたふるさとの歴史調べには、以下の記述*もある。
 
俗明院
 
 西北福岡県庁道程五里二町

 彊域。東。永岡村。五里。西。立明寺村。三町。北。鉢擦村。二町二接シ。人家本村。十六戸。下河原。一戸、二所ニアリ。村の名義は、昔此所二続命院アリテ。九國二嶋ノ民ノ飢餓病死ヲ救ヘルヨリ起コレリ。今ハ訛テ、俗明院トカク。村位。下。地形。平低。運送ノ便。中。原田夜官道二町。二日市駅三十町。土質。八分小砂。二分眞土。七分乾地。三分湿地。地味。中。田人中稲。麦。菜種。栗。琉球芋。大根等ヲ作ル。薪秣乏シ。(下線筆者)
 

上の資料は、おそらく明治維新後福岡県の成立以後に、県当局が県内の各地域の現状を把握するために作成したものと思われる。注目したいのは下線部分である。今では訛って、(続命院)を続命院と記すようになったとあるが、実際には「地名登録の際、県庁の役人が『続命院』と書くべきところを誤って『俗明院』と書いてしまい、それが県の書類に載ってしまい、実際の地名のほうも『俗明院』と表記されるようになった」(古老)らしい。つまり、「俗明院」という地名は明治以降にできた比較的新しい“官製”地名なのであった。だが本来の「続命院」に戻したいと考えている方もいるということを付け加えておこう。

上記は筑紫野の「俗明院(明治以前は「続命院」)」についての記述ですが、同様の施設が、少なくとも筑紫野以外にも2か所に建設され、利用されていたことがわかります。逆に言えば、これらの施設から太宰府寄りの地域は、広い意味での太宰府、つまり「都(とその周辺部)」であったわけです。

このことは、冒頭の「鏡が池」の案内板を理解するうえで、重要な意味を持ちます。

神功皇后が「しょうじがみね」から国の様子を見た記憶が、障子ヶ岳から太宰府北側の四王寺山と混濁する要素は、もともとこの土地の性格として、持っていたことになるからです。

福岡県神社誌:下巻214頁
[社名(御祭神)]鏡山大神社(気長足姫命、足仲彦天皇
[社格]村社
[住所]田川郡勾金村大字鏡山字南原
[境内社(御祭神)]稲荷社(保食神