松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

北九州市小倉南区西水町 貴布祢神社

過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.07.28)


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福岡県神社誌で発見できなかったため、現地鳥居の扁額にもとづき社号を「貴布祢神社」と記載しています。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

1950年(昭和25年)の地図と、現在の地理院地図を重ねてみます。当時、JR日田彦山線はJR城野駅でJR日豊本線と合流せず、北上して小倉駅付近に終点がありました

付け替えた城野駅への短絡線は1956年に供用が開始されました。神社の移転地を寄付されたかたの顕彰碑が、境内にありました。昭和27年(1952年)とあり、供用開始の数年前から神社等の移転工事がはじまっていたことがわかります。

市指定文化財

考古資料康永二年銘自然石梵字板碑(升塚)昭56・2・2指定

康永二年(一三四三。北朝年号)に造立された板碑で、石材は結晶質石灰岩である。碑面の上部に阿弥陀を表す梵字「 」(キリーク)を彫り、その左下隅に「康永第二天暦癸未三月十三日」の年紀を刻んでいる。
板碑はその形の簡略さ故に、大衆的な塔婆として鎌倉時代以降各地で盛んに造られた。この板碑に年号のほかに文字がなく、誰によって造立されたのか、またその目的が死者追善供養であるのか、あるいは生前から死後の往生を祈る逆修供養であるのかは明らかではない。しかし現在市内で確認されている板碑の中で、年紀を刻んだものでは最古であり、中世の信仰形を知ることのできる好資料である。
板碑の建てられた原位置は水町橋付近であったが、鉄道敷設その他の事情で数回周辺に移され、大正十四年この貴布祢神社境内に移設された。
なおこの板碑には~むかしこの地方には定められた升がなく困っていた。そこである村人が升を決めてもらおうと鎌倉に上がり三年の間幕府に訴え続けた。しかし村人は目的を果たさぬまま死んでしまった。このことを聞き及んだ将軍はふびんに思い早速升を決めさせた。これを喜んだ村人達はお祝いをし、その記念に石碑を立てた。~という伝説が古くからあり「升塚」の名で地域住民に知られている。

地上高一八二センチ
最大幅五二センチ

北九州市教育委員会

神社の由緒書きかとおもったら、なんと境内にある文化財の説明板でした。

社殿背後が一段高い丘となっており、画像左手が、文化財の板碑のようです。

社殿は立派なもので、無格社どころか神社誌未掲載というのがどうも腑に落ちません。

拝殿内の清掃も行き届き、雰囲気も立派です。

神輿庫もあります。

小倉市 編『小倉市誌』続編,小倉市,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1144286 (参照 2023-02-09)

さきの「今昔マップ」で神社があった辺りの小字が「村内」なのか確証はありませんが、小倉市誌には大字城野で貴布禰社の記載があります。おそらくこれでしょうか。

社殿横に置かれた石祠は、もしかすると移転前の本殿か、「小倉市誌」にある合併した大山祇の祠かもしれません。

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.08訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年2月8日の日録 - 美風庵だより