過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.07.28)
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伊東尾四郎 編『企救郡誌』,伊東尾四郎,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1171034 (参照 2023-02-07)
福岡県神社誌、企救郡誌ともに「浮津島社」ですが、googleマップなどでは社号が「浮津島神社」となっているため、それに従います。
なお、鳥居の扁額は「荒神社」です。
(OCRでうまく文字起こしできなかったので、以下、北九州市のホームページから引用します)
荒神森古墳(こうじんのもりこふん)
周防灘に面した砂丘の上に築かれた古墳で、全長約68メートル、後円部径約41メートル、前方部幅約41メートルあり、市内では最大の規模を誇る前方後円墳である。
後円部には円筒埴輪の列が二段になって巡っており、前方部にも何段かの円筒埴輪の列が巡っていたと考えられ、これまでに円筒埴輪や家形埴輪などが出土しており、築造時期は墳丘の形態や円筒埴輪などから、6世紀中ごろに比定される。
また、現存はしないが、近くにトントンの森、カンカンの森と呼ばれる2基の陪冢(ばいちょう)【大きな古墳の近くに近親あるいは従臣を葬った小さな古墳】があったと伝えられている。周堤帯を持つ前方後円墳は、市内には他になく、この古墳に埋葬された人が大きな権力を持ち、大和政権と深く結びついていたと考えられる。
「なんでも大和朝廷とむすびつけないと気が済まないのか」と少々残念な気分になりましたが、「景行天皇13年の勧請と申し伝う」と企救郡誌にありますから、九州王朝とはそもそも関係ない存在なのかもしれません。景行天皇は「大足彦忍代別:おおたらしひこおしろわけ」の名のとおり、(現王朝側で)九州王朝側の人間ではないからです。
事前にネットを検索したさい、どうやら現地には別の案内板もあるらしいときづいていたのですが、見当たりません。
帰宅してネットを確認すると、見たかった案内板の場所は、自分が鳥居を目印に近づいた場所(★)とはまったく別だったことに気づきました(画像は拝借しました)。
この部分が、ちょうど円墳にあたります。
鳥居をくぐってすぐ右脇にあるのが、この「かわご石」で、これが神籠石であるなら(高良山神籠石同様)拠点防衛のため築かれた石垣の一部だったのかもしれません。
福岡県神社誌に記載はありませんが、企救郡誌には「境内社1社 八坂社」とあります。これがその八坂社(祇園社)でしょうか。
方墳部分に石段が築かれています。
円墳の一部をけずり、本殿を押し込むようなかたちで社殿が建てられています。拝殿にアルミサッシをはめ込む改修はけっこうみましたが、賽銭箱のために真ん中を両開き窓にしたケースは、たぶんはじめてだとおもいます。
福岡県神社誌:下巻451頁
[社名(御祭神)]浮津島社(武甕槌命、経津主命)
[社格]無格社
[住所]企救郡曽根町大字曽根字市場
[由緒]記載なし。
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2023.02.05訪問)
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。