松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

福岡市中央区天神2丁目 警固神社


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西鉄福岡駅や福岡三越のちかく、隣が警固公園という立地のせいもあってか、ひごろは混みあう神社です。

本殿に警固大神(神直毘神・大直毘神・八十禍津日神)、相殿に建角身神・豊玉姫命・神功皇后・応神天皇を祀る。
(略)
社伝では神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。慶長6年(1601年)福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に移され、慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政によって現在の場所に社殿が造営された。大正5年(1916年)、県社に列格した。
社名及び周辺の地名である『警固』はかつて鴻臚館にあった役所『警固所』に由来する。

警固神社 - Wikipedia

福岡市内に警固神社は3社あります。そのなかの1社です。

 福岡市南区警弥郷3丁目 警固神社 - 美風庵だより

 福岡市早良区四箇4丁目 警固神社 - 美風庵だより

過去に訪問した2社、とくに旧上警固村(現警弥郷3丁目)の警固神社で書いたとおり、もともとは警固所に与えられた領田の鎮守だった神社が、福岡藩黒田家により祀りなおされたのが、この天神2丁目(旧下警固村)の警固神社ということになります。

不思議なのは至るところに下り藤紋があることで、これがてっきり御神紋かとおもいきや、そうではありません。この真ん中に点のある平角紋はなんという名称なのでしょうか?

平成20年(2008年)に建てかえられた神門です。

社殿と扁額です。

背後には福岡駅と福岡三越がそびえます。

境内社の今益稲荷神社です。

福岡県神社誌:上巻61頁
[社名(御祭神)]警固神社(神直日神、大直日神、八十枉津日神、建角身命、神功皇后、応神天皇)
[社格]県社
[住所]福岡市小烏馬場
[由緒]明治五年十一月十三日村社に列せらる。創立年代不詳。社説に、上古は筑前国那珂郡岩戸郷警固村に鎮座、仲哀天皇九年庚辰同郡福崎筑紫石の汀に影現ありければ、神功皇后其の山上に祭り給ふ。即皇后異国退治の時、神直日神、大直日神、八十枉津日神の三神再現し給ひて軍衆を守護し給ふ。皇后凱旋の後異賊襲来を防護の為めとて、此の三神を福崎と云ふ丘上に祭り給ふ、今の福岡の旧城本丸の地なり。慶長六年辛丑、黒田長政福岡城を築かれし時、暫く警固村の山上に移され、同十三年戊申七月七日此所に移さる。此の地は上古より小烏神社と称して建角身神座ましければ即ち同殿に合祭すと云ふ。大正五年二月二十六日県社に列せらる。抑当社は神代以来の鎮座にして、伊邪那岐大神筑紫日向の橘小門の檍原に禊祓給ひし時に成坐せる神々なることは、記紀各々其の明記する所にして、後神功皇后御征韓の折当社の祭神が軍衆を守護し給へることは、明細帳所載の通りなり而して御社名の由来に就ては、警固神社祠来由記に曰く、
元禄五年歳次壬申九月吉旦 瑞応七十九翁 泊如運敞草並書
陰陽不測曰(中略)後人随義異其名字。其謂和魂内守身壽故号曰家護明神。其荒魂外防禦怨敵故号曰外護。又為軍先鉾故号曰警固。和語相近也。又復盪滌蒼生之濁穢祓除災(さんずいに珍の右側)之神故号警固也。(雖興日本紀所載不同当社伝如斯)云々。
筑前国続風土記巻之三に曰く、
警固大明神(中略)神直日、大直日、八十枉津日の三神は軍衆を警固して勝利を得べきことを守らせ給ふ。(是当社の三神なり)此の故に此三神を後世に警固大明神と称すと云。今案ずるに警固と名付けしは古此地に警固所有りし故、其所に在す神なれば名付け侍りしにや、神功皇后の新羅を討給ひし時、此神軍衆を警固し給ふと云ふは、其の名に依て後の人附会せしなるべし、云々。等の諸説あり。(附記、警固所址は今福岡城本丸の地なり。古此の辺を福崎と云ふ。博多津に異国船入り来たる防禦の為に山上に警固所を置かる。警固の名も是より起れりと)。
当社は初め那珂岩戸郷警固村に鎮座ましまし、夫より神功皇后外賊鎮護の神として福崎の山上に鎮祭せられ、慶長六年黒田長政居城を此地(福崎山)に築くに際し、当社を城の鎮守と仰ぎ、殊に長子忠之本丸にて誕生せしを以て産神と崇め奉る。是より先城中にては士庶の参詣不自由なるを以て築城と同時に那珂郡下警固村の南岨に仮殿を建て遷し奉り、其の後慶長十三年今の所(福岡市小烏馬場小烏神社の旧址と伝ふ)に、新に神殿、拝殿、楼門其の他輪奐の美を極めたる社殿を造営して同年七月七日遷座に相成り、爾来歴代藩主の尊崇逐年篤きを加へ、元和七年十一月五日長政より神領百八十石を奉納せられしを始めとして、忠之、光之、綱政等相尋で種々の宝物を奉納し、寛文八年戊申十月二十日(附記十二月二十日と記せるものあり)市中に大火ありて社殿囘禄に罹るや、延宝四年丙辰、光之再興の挙あり。爾後経営に多額の奉賽を重ね、明治維新までは本社の造営修繕等は勿論、年中大小の神事悉皆公費を以て支辨せられ、特に毎年九月十八、十九両日の例祭には国主より代拝の使者を差立られ、守護の監史を派して幣帛を奉り、御神楽、流鏑馬、猿楽、相撲等を奉納し頗る盛大なる祭典を厳修し、殊に水旱必ず祭り、風雨疫癘必ず祷り、挙国仰信せしことは由来記其の他に詳記するところなり。
[境内社(御祭神)]東照神社(徳川家康)、天照皇大神社(天照皇大神)、菅原神社(菅原道真)、稲荷神社(倉稲魂神、火産霊神)
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2023.01.26訪問)
 
訪問当日の様子はこちらに掲載しています。

2023年1月26日の日録 - 美風庵だより