松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

「幻の石橋」


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朝倉地域に隣接する、人目の付かない地にひっそりとたたずむ「幻の石橋」の歴史解明に情熱を注ぐ高校生がいる。福岡県朝倉市の朝倉高2年で、史学部部長の中原透也(とうや)さん(17)だ。石橋は全国的にも数少ない工法で架けられているが、劣化が進み崩壊の恐れもあるという。「貴重な土木遺産を後世に」と橋の由来を調べるが、「まずは多くの人に石橋の存在を知ってもらいたい」と願う。 

ひっそりとたたずむ「幻の石橋」…謎の解明に情熱注ぐ高2|【西日本新聞me】

2020年の記事です。これで存在が一気にひろまり、いつのまにか「幻の石橋」として有名になりました。

23日、通りがかったので車を停め、現在の国道から見下ろして撮影してみました。

国道211号掛橋橋から、見ることができます。なお、現国道から下りる道はありません。

現地の地理院地図と、1961年ごろの航空写真を示します。標高を示す「+」の位置に石橋があります。真ん中の地図に書き加えた青線は、車道開通前の嘉麻峠・小石原に向かう人道を示します

嘉麻市桑野 瀑布宮・首渕の滝 - 松村かえるの「かえるのねどこ」

過去の「神社めぐり」記事でも書いたとおり、ひとが小石原方面に向けて歩く「本道」は、ナゴンバル(納言原)から倉谷に向かう経路でした。車道の整備がすすめられたのは昭和30年ごろ。1961年の航空写真に写っている旧国道は、まだ出来立ての道だったわけです。

さらに平成に入って、現在のまっすぐな道(現国道)に路線改良されます

地図とふるい航空写真を見比べれば、まだ自動車を考慮しなくてよい時代の本道から、現在の掛橋集落に向かう分岐の途中に、石橋が存在していることがわかります。

この石橋「地元でもほとんど存在が知られていない」ということになっています。

そのほうが、話題性も高まるし宣伝効果もあるのであまり文句を言ってはいけないのでしょうが、子供のころ川遊びや魚釣りをしたことがあるひとなら、存在は知っていました。

ただ、私自身、旧国道開通後に生まれた世代であるため、この橋がどこにつながっているかもわかりませんでしたし、そもそもなぜここに存在するかも、不思議だったのをおぼえています。

いま考えてみると、多少おカネが掛かってもこういう構造の橋を欲した理由はわかります。

遠賀川上流部で大雨があるたび、橋脚のある橋はだいたい壊れています。山崩れで巨石が流れ込み、それが転がって下流に向かい橋脚を壊すためです。子供のころからほぼ無傷で現在も生き延びているところは、川幅が狭い場所に、頑張って橋脚を立てずに架橋したところばかりなのは、偶然ではありません。

この橋が架橋されたのは江戸時代とのことですが、その時代ならなおのこと河川改良工事など行われていないでしょうし、意地でも集落を孤立させないために最新のアーチ橋を欲したのでしょう。

むかしの道は人馬がとおれればよく、下手すると荷車すら押せない道幅しかありませんでした。車が使われるようになって道幅の拡張ができないところは、大胆に道の付け替えが行われるようになります。

道として使われなくなれば、存在そのものが忘れられていきます。

私たちは「うなぎが獲れた」とか、そういう情報を聞きつけてこの近くで川遊びをしていたので「なんだこれ?」と見上げたことはありましたが、まさか、文化財指定がもらえるほど貴重な存在とはおもいもしませんでした。

おそらく、ジモティでもほとんどがそういう認識だとおもいます。

状況の変化を感じたのは2000年ごろだったでしょうか。

九州各地の橋(神社の御神橋から河川にかかる橋まで)を特集したホームページを運営されていたかたから「資料にあるがどこかわかるか?どうやらあなたは近くにお住いのようですが」とメールで問い合わせがあり、地図に印をつけてスキャナで読み、メールで返信したことがありました。

そのかたがその後取材されたかどうかもじつは判然としません。ただ、資料レベルでは記載があり、他県から見に来るレベルのものだと認識したのは、この件がきっかけだったとおもいます。

この手の遺構物を評価するさい、ジモティはなぜ価値を見出せなかったのか?といった書かれかたをすることがあります。ひとことで言えば、すでに生活に必要なものではなく、価値がありませんでした。昭和30年代には旧国道が整備され、小石原や原鶴方面の路線バスも開通して、車社会を迎えます。車も耕運機も通れず、たどりつくための道は田んぼのあぜ道で幅がなく、むしろ、戦前は農道として機能していたことを記憶している古老が存在したことすら、奇跡といえます。

民藝運動の賛同者で、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小石原焼と共に小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。  

小鹿田焼 - Wikipedia

今回の朝倉高校による「再発見」は、いわば小石原焼や小鹿田焼におけるバーナード・リーチや柳宗悦がやったことと同じと解してよいでしょう

逆にいえば、ジモティはもともと実用のため架けた橋に芸術的歴史的価値の視点をもたず、プラグマティックにしか判断しませんから、こういう「再評価」「再発見」はできないものなのです。

とはいえ、まさかまさかの文化財指定にはびっくりです。